ジョン・C・フレモント
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ジョン・C・フレモントJohn C. Fremont

生年月日1813年1月21日
出生地 アメリカ合衆国
ジョージア州サバンナ
没年月日1890年7月13日
死没地 アメリカ合衆国
ニューヨーク州ニューヨークシティ
前職軍人
所属政党共和党
配偶者ジェシー・ベントン・フレモント
第3代カリフォルニア州軍事知事
在任期間1847年1月 - 1847年3月1日
上院議員
選挙区カリフォルニア州
在任期間1850年9月9日 - 1851年3月3日
第5代アリゾナ準州知事
在任期間1878年 - 1881年
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ジョン・チャールズ・フレモント(John Charles Fremont、1813年1月21日 - 1890年7月13日)、本名ジョン・チャールズ・フリーモント(John Charles Fremont)は、アメリカ陸軍将校探検家共和党の最初のアメリカ合衆国大統領候補者であり、また奴隷制に反対した政治要綱を持つ多数党からの最初の大統領候補者。自らを「偉大な開拓者(The Great Pathfinder)」の称号で名乗った。カリフォルニア州から初めて選出された合衆国上院議員の一人でもある。
若年期

フレモントはジョージア州サバンナで生まれた。彼の先祖は歴史家に議論されている。

1902年のフレモント家の家系図[1] によれば、彼はバージニア州の目立った社交家、アン・ビヴァリー・ホワイティングの息子で、アンは1807年5月14日、ノーフォーク出身の貧しいフランス人亡命者でフランス語教師のルイ=レネ・フレモントと再婚した。ルイ=レネ・フレモントはジャン=ルイ・フレモントの息子で、ジャン=ルイはケベックシティの商人で、パリ近くのサン=ジェルマン=アン=レーから来た移民のチャールズ=ルイ・フレモントの息子となっている。

しかし、アンドリュー・ジャクソンの伝記の著者であるH・W・ブランズは、フレモントはアンとチャールズ・フレモン(Charles Fremon)の間の子供で、後にフレモント自身が、eにアクセントを付けてtを追加したと記載している[2]

彼は非嫡出子で、その社会的なハンディキャップを、民主党を率いた奴隷所有者、トーマス・ハート・ベントンの愛娘、ジェシー・ベントン(en:Jessie Benton Fremont) と結婚することで克服した、という説が多くの人に信じられている。
アメリカ西部の探険

フレモントは、アメリカ合衆国西部の多角的測量の遠征を手伝い、また率いた。1838年1839年、彼は、ミシシッピ川ミズーリ川の間の土地を探険するフランス人地理学者、ジョセフ・ニコレット(en:Joseph Nicollet)の手助けをし、1841年、ニコレットからの訓練で、フレモントはミシシッピ川の支流のデモイン川の大部分を地図にした。

1841年から1846年、フレモントと彼のガイドのキット・カーソンは、オレゴン・トレイルを通ってシエラネバダ山脈に入る遠征隊を率いた。シエラネバダの探険の間、フレモントはタホ湖を見た最初のヨーロッパ系アメリカ人になったことは広く認識されている。彼はまた、グレートベースンは海への水のはけ口がないことを究明し、セント・ヘレンズ山などの火山も地図に起こした[3]

1846年春、フレモントは国務省の命を受けてロッキー山脈からコロンビア川に到着する最短ルートを求めてカリフォルニアに到着した。当時のカリフォルニアはメキシコ領で、首都のメキシコシティからは遠く離れ、人口わずか1万人の辺境の地だった。フレモントは、ホセ・R・ベレイェサとラモンとフランシソの双子のデ・ハロ兄弟(最初のサンフランシスコ知事フランシスコ・デ・ハロ(en:Francisco De Haro)の息子)の3名の民間人の殺害を、現在のサンラフェル(San Rafael)の近くで命令した[4]。この殺人は、フレモントの政治生命を妨げ、彼が望んだ最初のカリフォルニア州のアメリカ人知事の地位に就くことを阻んだ。半世紀後にこの殺人について書いた歴史家、ロバート・A・トンプソンは、「カリフォルニア州民は、この日のことを激しい情抜きでは口には出せない」と記している[5]

その同年、フレモントはカリフォルニア軍事総督のカストロに探検の許可を求め、カストロもいったんはこれを許可するが、後にカストロは、フレモントのカリフォルニアでの行動に疑問を感じ、探検の許可を撤回する。しかし、フレモントはこれを無視して探検を断行。さらに、地元の入植者独立運動を扇動してメキシコ当局に対して反乱を起こさせたという。これは、米墨戦争の発端となった。

ウィリアム・アイダひきいるカリフォルニアの反乱軍は1846年6月6日カリフォルニア共和国の独立を宣言するが、同国は7月5日ロバート・F・ストックトン海軍准将ひきいるアメリカ艦隊の上陸とともに合衆国に吸収されていく。その後、合衆国騎馬ライフル部隊(U.S. Mounted Rifles)、後の第3機甲騎兵連隊(3d Armored Cavalry Regiment))の中佐となったフレモントは、ストックトンの指揮下で行動し、米墨戦争の間、カリフォルニア州サンタバーバラの占領のため300名の軍事遠征隊を率いた。彼は部隊とともにサンマルコス峠(en:San Marcos Pass)を通ってサンタイネス山脈(en:Santa Ynez Mountains)を越え、砦と町を占領した。1847年1月、この戦争で負けたアンドレ・ピコ将軍は、負傷者を増やすことを避けて後に降伏し、カフエンガ条約を調印、カリフォルニアにおける米墨戦争は終結する[6]

1850年、地形測量工兵隊(Corps of Topographical Engineers)の一員として北アメリカ大陸西部において地理学へ貢献したとして、フレモントはイギリス王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を贈られた[7]
政治「フレモント大佐がロッキー山脈に米国旗を立てた」とアピールする大統領選ポスター禁欲主義フェミニズム社会主義自由恋愛カトリシズム人種平等、をフレモントが公約する風刺画

1847年1月16日、ストックトン准将はカフエンガ条約の後、フレモントをカリフォルニア州軍事知事に任命し、カリフォルニア州における米墨戦争は終わった。しかし、フレモントより地位が上で、自らを正当な知事と信じていたアメリカのスティーブン・W・カーニー将軍は、連邦政府に対して、命令を下す権威は自分にあることの確認書を要求するとともに、自分の許可を得ず知事に就任したフレモントの行為は反乱罪にあたるとしてフレモントを捕まえてワシントンD.C.に送還し、そこでフレモントは反乱罪を宣告された。


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