この項目では、キーボーディストについて説明しています。小説家については「ジョン・ロード (小説家)
」をご覧ください。ジョン・ロード
ディープ・パープル時代(1976年)
基本情報
出生名Jonathan Douglas Lord
生誕 (1941-06-09) 1941年6月9日
出身地 イングランド レスターシャー州レスター
死没 (2012-07-16) 2012年7月16日(71歳没)
イングランド ロンドン
ジャンルハードロック
ヘヴィメタル
職業キーボーディスト
担当楽器ハモンドオルガン、シンセサイザー、クラビネット、ピアノ
活動期間1963年 - 2012年
共同作業者ジ・アートウッズ(英語版)
サンタ・バーバラ・マシン・ヘッド(英語版)
ザ・フラワー・ポット・メン(英語版)
ディープ・パープル
ペイス・アシュトン・ロード(英語版)
ホワイトスネイク
公式サイト ⇒jonlord.org
著名使用楽器
該当項目を参照
L・V・ベートーベン
ジョン・ロード(英語: Jon Lord、1941年6月9日 - 2012年7月16日[1])は、イングランド出身のハモンドオルガニスト、ピアニスト、作曲家。 レスターで生まれる。本名ジョナサン・ダグラス・ロード。 父親はサクソフォーン奏者であったので、音楽的な環境に恵まれており[2]、9歳の頃からピアノのレッスンを受け始める。最初はクラシック・ピアニストを目指していたが、演劇にも興味を持っていて演劇学校にも通っていた[3]。ある日、ジミー・スミスが奏でるハモンドオルガンのサウンドを偶然耳にして、その魅力にはまった。
略歴
生い立ち
同年、サンタ・バーバラ・マシン・ヘッド(英語版)(Santa Barbara Machine Head)[7][注釈 2]を結成。彼等はオムニバス・アルバム『ブルース・エニタイム(英語版)』に3曲のインストゥルメンタルを提供する[8]が、同年解散した。ボーカル・グループのザ・フラワー・ポット・メン(英語版)のバック・バンドに参加[9]。
1967年末、元サーチャーズのクリス・カーティス(英語版)の新しいバンドであるラウンドアバウト(Roundabout)の2人目のメンバーになった。カーティスは次にギタリストのリッチー・ブラックモアを迎えた[10]後に失踪したので、ロードはブラックモアと2人でメンバーを探し続けた。ラウンドアバウトは1968年2月頃までに5人組になり[11]、同年4月20日にデンマークの学校のホールで初のライヴを行なった[12]。 1968年5月、ラウンドアバウトはディープ・パープルと改名した[12]。詳細は「ディープ・パープル」を参照 ディープ・パープル[注釈 3]が1976年3月に第4期を以って解散する[13]まで、ロードはオリジナル・メンバーで最年長者としてバンドをまとめた。 1971年10月、初のソロ・アルバム『ジェミニ組曲
ディープ・パープル
ディープ・パープル在籍中のソロ活動
1974年7月26日、2作目のソロ・アルバム『バッハ未完成フーガ(英語版)』を発表[15]。このアルバムは同年6月1日にミュンヘンで開かれた[16]、作曲家エバーハード・シェーナー(英語版)が指揮するミュンヘン室内管弦楽団とロードとの共演コンサートのライブ録音。ピート・ヨーク(ドラムス)、アシュトン(ヴーカル、キーボード)、レイ・フェンウィック(ギター)、デイヴィッド・カヴァデール(ヴォーカル)、グレン・ヒューズ(ベース・ギター、ヴォーカル)が客演した。
1974年8月、アシュトンとの共作アルバム『ファースト・オブ・ザ・ビッグ・バンズ(英語版)』を発表[17]。 1976年8月にペイス(ドラムス)、アシュトン(ヴォーカル、キーボード)、バーニー・マースデン(ギター)、ポール・マルチネス
ペイス・アシュトン・ロード
彼等は1977年3月にデビュー・アルバム『不思議な国のマリス(英語版)』[注釈 5]を発表[19]して、月末に国内ツアーとしてバーミンガム、ニューカッスル・アポン・タイン、リヴァプール、グラスゴー、ロンドンで計5回のコンサート活動を行なった[20][注釈 6]が、1978年5月に解散した[21]。