ジョン・ロックフェラー
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ジョン・ロックフェラー
John Rockefeller
1885年に撮影された写真
生誕John Davison Rockefeller
(1839-07-08) 1839年7月8日
アメリカ合衆国 ニューヨーク州リッチフォード
死没 (1937-05-23) 1937年5月23日(97歳没)
アメリカ合衆国 フロリダ州オーモンド・ビーチ
墓地 アメリカ合衆国 オハイオ州クリーブランド、Lake View Cemetery
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯41度30分40秒 西経81度35分28秒 / 北緯41.511度 西経81.591度 / 41.511; -81.591
国籍 アメリカ合衆国
職業スタンダード・オイル創業者、
シカゴ大学ロックフェラー大学の創設
ロックフェラー財団創設
宗教バプテスト教会
配偶者ローラ・スペルマン
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ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー・シニア(John Davison Rockefeller, Sr、1839年7月8日 - 1937年5月23日)は、アメリカ合衆国の実業家、慈善家。石油王と称えられた。

1870年にスタンダード・オイル社を創業し、ピーク時はアメリカの石油の90%をコントロールするなど[1]、同社は石油市場を独占してアメリカ初のトラストを結成した。1897年に事実上引退し、その後は現代的フィランソロピーの構造を定義し、慈善活動に力を入れた[2]。その資産はピーク時には9億ドルに上り、国の経済の1.5%以上であった。物価の変動を考慮すると史上最大の資産を持つ富豪とされている[3]

慈善活動の現代的かつ体系的アプローチの構築に引退後の40年間、資産の大部分を使った。医療・教育・科学研究促進などを目的とした財団を創設した[4]。彼が創設した財団は医学研究を推進し、鉤虫症黄熱病の根絶に貢献した。また、シカゴ大学ロックフェラー大学を創設した。

熱心なバプテスト信者であり、生涯にわたって米国バプテスト同盟を支援した。彼は酒とタバコを嗜まなかった[5]
前半生リッチフォードの生家

ニューヨーク州リッチフォード(英語版)で、ウィリアム・エーヴリー・ロックフェラー(英語版)(1810年11月13日 - 1906年5月11日)とその妻イライザ・デイヴィソン(1813年9月12日 - 1889年3月28日)の6人の子供の2番目として生まれた。長年に渡りフランス系の起源を持つとされてきたが、現在ではロックフェラー家が17世紀初頭のドイツに始まったことが判明している[6]。父はかつて林業を営んでいたが、巡回セールスマンとなり「植物の医師」(botanic physician) を名乗ってエリキシールを売り歩いた。近所の人々はそんな珍しいもの好きの父を Big Bill とか Devil Bill と呼んだ[7]。旅に出ていることが多く、家には闖入者のように時折帰ってくるだけだった。父は生涯に亘って真面目に働こうとせず、常に一山当てようと目論んでいるような男だった[8]。イライザは信心深いバプテストであり、夫が不在の間家庭を維持するため奮闘した。夫は頻繁に外に女を作り、時には重婚していたこともあるが耐え抜いた[9]。自然に倹約が常となり、息子には「故意の浪費は悲惨な欠乏を招く」と教え込んだ[10]。若きロックフェラーも家事を手伝い、七面鳥を育てて金を稼ぎ、ジャガイモや飴を売ったり、近所に金を貸すなどして家計を助けた。「小皿を大皿と交換しろ」という父の助言に従い、彼は常に取引で有利になることを心がけていた。父は「チャンスがあれば息子達も騙す。そうして奴らを敏感にしたい」と言っていた[11]

少年のころ一家でニューヨーク州モレイビアに引越し、1851年にはさらに同州オウィーゴに引越しており、オウィーゴでは学校に通っている。1853年、クリーブランド近郊のストロングスビルに移った。クリーブランド中央高校で学び、商業専門学校で10週間のビジネスコースを受講し簿記を学んだ[12]

父の不在と頻繁な転居にもかかわらず、ロックフェラーは行儀がよく、真面目で、熱心な少年に育った。当時を知る人は彼を、控え目で真面目で信心深く几帳面で分別があったと評している。議論がうまく、正確に自分の考えを表現できた。また音楽好きで、将来それで身を立てたいという夢を持っていた[13]。早くから算術と経理の才能を発揮した。18歳のロックフェラー(1857年ごろ)

1855年9月、16歳のとき、製造委託会社 Hewitt & Tuttle にて簿記助手の職を得た。長時間働き、そのオフィスの仕事の全てに精通するようになる[14]。特に輸送費の計算に熟達し、そのことが後々大いに役立った。最初の3カ月間の給料は50ドル(1日あたり50セント)だった[15]。当初から給料の約6%を寄付しており、20歳のころには10%をバプテスト教会に寄付している[16]

若いころ、10万ドルを貯めることと100歳まで生きることが目標だと語っていたという[17]

1859年、資本金4,000ドルでモーリス・B・クラーク(英語版)と共に製造委託会社を設立。そこで着実に利益を上げていった[18]。食料品の卸売りからはじめ、1863年には当時クリーブランドの工業地域だった「ザ・フラッツ」に建設される製油所に投資した。この製油所を直接所有していたのは Andrews, Clark & Company で、クラークとロックフェラーと化学者サミュエル・アンドリュース(英語版)とクラークの2人の兄弟が創業した会社である。石油産業は揺籃期だった。鯨油が大量に使用するには高価すぎるものとなり、安価な燃料が必要とされていた時代である[19]

兄フランクが南北戦争で従軍したころ、ロックフェラーは彼の事業も引き継いでいる。北部の裕福な人々が従軍する代わりに北軍に資金提供したように、彼も北軍に資金提供した[20]。石油産業史に詳しいダニエル・ヤーギンが重要だと指摘する出来事が1865年2月に起こった。クラークと対立したロックフェラーが持ち株をクラークに売り払ってパートナーシップを解消し、精油事業(彼の会社が持っていた精油所は処理能力が1日に原油500バレルであった。)を72,500ドルで買収したのである。その買い取った権利を基に、化学者のアンドリュースとロックフェラー・アンド・アンドリュース社を設立した。ロックフェラーも後に「その日、私の経歴が決定した」と述べている[21]。南北戦争後、鉄道の成長と石油に支えられ西部に向かって開発が進展、ロックフェラーはよい位置につけた。多額の借金をし、利益を再投資し、市場の変化に迅速に対応していった[22]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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