ジョン・ロス_(チェロキー)
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ジョン・ロス
ジョン・ロス、1866年頃
生誕1790年10月3日
アラバマ州ジュモ
死没1866年8月1日
ワシントンD.C.
職業チェロキー族指導者
配偶者クァティ・ブラウン・ヘンリー(1790年頃 - 1839年)
メアリー・ブライアン・ステイプラー(1826年 - 1865年)
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ジョン・ロス(: John Ross、1790年10月3日 - 1866年8月1日)は、グウィスグウィ(神話の鳥、あるいは珍しい渡り鳥)とも呼ばれ、1828年から1860年までのチェロキーインディアン・ネーションの首長(Principal Chief)である。その民族のモーセとも言われ、開拓、オクラホマへの移住および南北戦争という騒々しい時代に民族を率いた。
目次

1 概要

2 チェロキーのモーゼ

3 少年時代

4 事業活動

5 ネーション指導者としての登場

5.1 政治的な修業

5.2 指導者就任

5.3 チェロキー・ネーションの首長

5.4 最高裁判所訴訟


6 ロス対リッジ党

7 移住後

8 南北戦争

8.1 中立の試み

8.2 アメリカ連合国との同盟

8.3 アメリカ合衆国への復帰


9 戦いの終わり

10 栄誉

11 脚注

12 関連項目

13 参考文献

13.1 一次史料

13.2 二次史料


14 外部リンク

概要

1690年から1745年、チェロキー族は民族国家(ネーション)になろうと試み、先祖からの土地を失い、インディアン居住地への移動に耐え、また破壊的な南北戦争を味わった。これら騒々しい時代にチェロキー・ネーションにおける有力な政治的人物がジョン・ロスであり、その指導力はこの全時代に及んだ。ロスの先祖を辿ると8分の7はスコットランド人の血を引いており、チェロキー族の中やアメリカの辺境という環境で育った。白人に英語の教育を受け、チェロキー語は拙く、ネーションの中でも最も富める者の一人だった。

ロスの血筋、教育、身分および経済利益の追求において、政敵であるアンドリュー・ジャクソン大統領やジョージア州知事のジョージ・R・ギルマーとよく似ていた。チェロキー・ネーションの特権階級の中にあった。ロス自身の人間性によって民族や先住民に関する19世紀アメリカの思いこみに疑問を投げ掛けることになった。
チェロキーのモーゼ

ロスの人生は、北アメリカカナダの著名なイギリス系混血者(メティス)の人生に似た様態があった。北アメリカのスコットランド人やイングランド毛皮交易業者は先住民を先祖に持つ上層の女性と結婚し、社会的地位も財政的地盤もあるのが普通だった。この関係は交易業者にも先住民にも役に立った。彼等は子供達を複数の文明と多言語の環境で育てた。混血の子供達同士でしばしば結婚し政治的にも経済的にも社会における卓越した地位に昇った[1]

19世紀にチェロキー族が経験した環境変化の中で、彼等はロスも習得した技術と言語を必要とした。チェロキー族の大多数は熱心にロスを支持し、1828年から1860年までの全ての選挙でロスを首長に選出した。領土に関する闘争で先住民の事情に関してロスの偉大さや議論があるが、ロスが専制的であり、貪欲で、チェロキー・ネーションを「欺そうとした貴族的指導者」と考えるチェロキー族の声高い少数者やワシントンの政治的指導者の世代もある[2]。ロスには、インディアン問題担当コミッショナーのトマス・マッキニー(在任1824年-1830年)を含み、ワシントンの影響力有る支持者もいた。マッキニーは「その民族を生まれついた国から新しい国へ、未開の状態から文明化された状態への脱出(エクソダス)を導いたモーゼのように、チェロキー・ネーションの父と表現した[3]
少年時代 19世紀初期にジョン・マクドナルドが立てた家。移住前までジョン・ロスが住んだ。現在もジョージア州ロスビルに建っている

ロスはアラバマ州のクーザ川に沿ったルックアウト山に近いターキータウンで、チェロキー族とスコットランド人の混血であるモリー・マクドナルドとスコットランド人移民で交易業者のダニエル・ロスの息子として生まれた。

ロスのスコットランド人の血は、スコットランド人通訳ウィリアム・ショーリーが、チェロキー族バード流の「純血」者ギグーイーと結婚した時に始まった。1769年、彼等の娘、アンナ・ショーリーがテネシー州ルードン砦でスコットランド人毛皮交易業者、ジョン・マクドナルドと結婚した。スコットランド人やイングランド人毛皮交易業者は、幾らかの財政的裏付けを持って到来する社会的基盤のある者達だった。彼等の子供は、混血であろうとそうでなかろうと、この時代には彼等の地位と階層を受け継いだ[4]。彼等の娘、モリー・マクドナルドが、アメリカ独立戦争の時に交易業者としてチェロキー族の間に住み始めたスコットランド人、ダニエル・ロスと1786年に結婚した[5]

ロスはその子供時代を両親とルックアウト山地域で過ごした。父の交易会社に度々通ってくる純血チェロキー族と合うことで、チェロキー族社会の多くを目にした。子供のロスはグリーンコーン祭りのようなチェロキー族の行事への参加も許された。父のダニエルは息子にチェロキー族の慣習に参加するよう喜んで認めたが、息子は厳密な教育も受けるべきと考えた。ロスは家庭内で教育を受けた後で、チェロキー族の子供達のためにテネシー州南東部に2つの学校を創ったギデオン・ブラックバーン牧師について高等教育を受けた。授業は英語で行われ、生徒はロスと同様に大半が多文化の者達だった。ロスはテネシー州サウスウェストポイントの専門学校でその教育を終えた[6]
事業活動

ロスは20代で教育を完了して多言語にも精通し、西部チェロキー族に対するアメリカ合衆国インディアン代理人に指名され、アーカンソー州に派遣された。米英戦争の時はチェロキー連隊で副官を務めた。この連隊はイギリスに同盟するクリーク族に対するホースシュー・ベンドの戦いに参戦した。

ロスはその後一連の事業を開始した。テネシー州で20人の奴隷を使い、170エーカー (0.68 km2) の農園を経営することからその資産の大半を得た[7][8]

1816年、ロスは「ロスの渡し場」と渡し船を設立した。さらに、交易会社と倉庫を作った。事業の全体で年に1,000ドル以上を稼いだ。ロスとチェロキー族がオクラホマに移住した後、開拓者達はロスの渡し場をチャタヌーガと改名した。

1827年、ロスはチェロキー族の首都であるニューエコタに近付くためにアラバマ州クーザ郡に移転し、ネーションの政治家達を指導した。クーザでは別の渡し船を造った。やはり20人の奴隷を所有し、170エーカー (0.68 km2) の農地を開拓した。1836年12月までにロスの資産は23,665ドルと評価されるようになった。当時チェロキー・ネーションの中で裕福な者5傑に入った[9]


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