ジョン・ロジー・ベアード
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ジョン・ロジー・ベアード
ベアード、1917年
生誕 (1888-08-13) 1888年8月13日
スコットランド アーガイル・アンド・ビュート ヘレンズバラ
死没 (1946-06-14) 1946年6月14日(57歳没)
イングランド イースト・サセックス ベクスヒル=オン=シー
墓地Helensburgh Cemetery
住居 スコットランド
国籍 スコットランド
市民権 イギリス
教育ラーチフィールド・アカデミー(英語版)
出身校グラスゴー・アンド・ウエストスコットランド・テクニカルカレッジ
ストラスクライド大学
職業発明家、実業家
団体ケーブル・アンド・ワイヤレスの技術コンサルタント (1941-)
John Logie Baird Ltd
Capital and Provincial Cinemas Ltd
著名な実績テレビの発明
宗教スコットランド国教会
配偶者Margaret Albu (m. 1931)
子供Diana Baird、Malcom Baird
親Rev John Baird
Jessie Morrison Inglis
補足
ロンドン物理学会(英語版)会員 (1927)
王立テレビジョン協会会員 (1927)
エジンバラ王立協会(英語版)名誉フェロー (1937)
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ジョン・ロジー・ベアード(John Logie Baird、1888年8月13日-1946年6月14日[1]は、スコットランドの電気技術者発明家。史上初めて動く物体をテレビで遠距離放送することに成功した。また、世界初の完全電子式カラーテレビ受像管も発明。ベアードのテレビシステムは電気機械式であり、後にウラジミール・ツヴォルキンフィロ・ファーンズワースの完全電子式システムに取って代わられたが、ベアードのテレビ放送の成功や後のカラーテレビ開発における功績はテレビ史上重要である。2002年、BBCが行った「100名の最も偉大な英国人」の投票で44位に入った[2]。2006年にはスコットランド史上の偉大な科学者10人に選ばれ、スコットランド国立図書館(英語版)の 'Scottish Science Hall of Fame' に選ばれた[3]。"Baird" はイギリスでテレビのブランド名として今も使われている。
生い立ちヘリンズバラにあるベアードの彫像

スコットランドアーガイル・アンド・ビュート(当時はダンバートンシャー(英語版))のヘレンズバラ生まれ。ラモンドスクール(後のラーチフィールド・アカデミー(英語版)の一部)、グラスゴー・アンド・ウエストスコットランド・テクニカルカレッジ(後のストラスクライド大学)を経てグラスゴー大学に進学。しかし第一次世界大戦で学業が中断され、卒業することはなかった。
テレビ

テレビは、多くの発明家の業績により発展してきた。中でもベアードの貢献は重要である。特にイギリスでは、ベアードが世界で初めて生で動くグレースケールのテレビ映像を生み出したとされている。優れた光電池を得て、光電池と増幅器からの信号調整を改善することで、他の発明家に先駆けて成功した。

1902年から1907年ごろ、アーサー・コーン(英語版)が画像伝送の信号調整回路を発明し、製作している。この回路はセレン光電池の遅延現象による画像崩壊を克服したものである。コーンはこの回路によって電話回線や無線で遠距離の画像伝送に成功したが(ファクシミリ)、彼の回路では電子増幅回路を利用していない[4]。コーンが静止画像の電送に成功したことで、その方式をテレビにも応用できる可能性が生まれた。ベアードはコーンの成果を利用した[5][6]

テレビシステムの開発当初、ベアードはニプコー円板で実験した。これは1884年にポール・ニプコーが発明した走査円板システムであり、画像を走査して逐次的な光の信号に変換する[7]。テレビ史研究家アルバート・エイブラムソンはニプコーの特許を「偉大なテレビジョン特許」と評している[7]。テレビ放送を考えたとき、2次元の画像を1次元の信号に変換するというニプコーの業績は重要である。

1923年初め、病気がちだったベアードはイングランドの南海岸にあるヘイスティングスに移住し、市内に作業場を借りた。そして、古い帽子箱、鋏、かがり針、自転車のライトのレンズ、茶箱、購入した封ロウや糊を使って、世界初となるテレビシステムを製作した[8]。1924年2月、Radio Times 誌に半機械式のテレビシステムを公開し動く影(物体の輪郭)の映像を披露した。同年6月、100ボルトの電気に感電したが、手に火傷を負っただけで生き延びた。しかし大家に作業場を貸すのをやめると言われたため、ロンドンソーホーに引っ越し、そこで技術的突破口を開いた。1925年3月25日から3週間にわたり、セルフリッジズというロンドンのデパートでテレビ映像の一般向けデモンストレーションを行った。

1925年10月2日、実験室で初めてグレースケールの画像の送受信に成功した。このとき被写体としたのは Stooky Bill という腹話術人形の頭部で、走査線は30本、毎秒5枚の画像を伝送した[9]。そこでベアードは下の階に下りて20歳の事務員ウィリアム・エドワード・テイントンを連れてきて、人間の顔がどんなふうに映るのかを見ようとした。したがって、テレビに顔が映った世界初の人物はテイントンということになった[10]。この発明を世間に知らせるべく、ベアードは Daily Express という新聞社を訪れた。応対した編集者はベアードを精神異常者だと思った。同僚に「お願いだから、下の応接室にいる精神異常者を追い出してくれ。あいつは無線で見ることができる機械を作ったなんて言ってるぞ! 見てみろ、きっと剃刀を持ってるだろうから」と言ったという[11]
初の一般公開

1926年1月26日、ロンドン王立研究所で動く物体の映像の送受信を公開実験で成功させ、ソーホーフリス・ストリート22番地にあったラボでタイムズ誌の記者に対して実験を披露した[12]。この時までには、走査速度を毎秒12.5画像に向上させている。このとき動く生映像をグレースケールでテレビ送受信できることを世界で初めて公開した。

1928年7月3日、カラーテレビの公開実験にも成功。ニプコー円板の開口部が作る螺旋を3本にし、それぞれ三原色のフィルターを付けたものを使用した。受信側では三原色の光源を使い、整流子でそれらの点滅を制御した。同年、立体テレビの公開実験も行った。

1932年、イギリス初の超短波 (VHF) 送受信の公開実験を行った。これは世界初には程遠く、1931年にはアメリカでVHF帯のテレビ放送向け割り当てが開始されている。1931年から1933年にかけて、ミルウォーキーのW9XDという放送局でVHFテレビの試験放送が行われた。U・A・サナブリア(英語版)のテレビ技術を使った試験放送だった[13]
放送

1927年、ベアードはロンドンとグラスゴー間の705kmという長距離の電話回線網でテレビ信号を送受信する実験を行った。グラスゴーのホテルで映像が映り、ベアードは世界初の長距離テレビ送受信を実現した[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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