ジョン・レノンの殺害
[Wikipedia|▼Menu]

座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯40度46分35.74秒 西経73度58分35.44秒 / 北緯40.7765944度 西経73.9765111度 / 40.7765944; -73.9765111

ジョン・レノンの殺害
事件現場ダコタ・ハウス
場所 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ダコタ・ハウス
日付1980年12月8日10:50 pm (1980-12-08T10:50 pm) (米国東部標準時)
標的ジョン・レノン
武器チャーター・アームズ社製.38スペシャル弾回転式拳銃[1]
死亡者ジョン・レノン
犯人マーク・チャップマン
動機有名になりたかったため[2]
テンプレートを表示

ジョン・レノン射殺事件[3](ジョン・レノンしゃさつじけん)とは1980年12月8日(月)22時50分ごろ、ビートルズのメンバーであるジョン・レノン(John Lennon)がアメリカニューヨーク市にある高級集合住宅ダコタ・ハウスの入口において、マーク・チャップマン(Mark David Chapman)に銃撃され殺害された事件。

レノンは妻オノ・ヨーコと共にレコード・プラント・スタジオから帰宅したところだった。レノンは市内のルーズヴェルト病院(英語版)に救急搬送されたものの、到着してすぐに死亡が確認された。享年40歳。搬送先の病院で発表された声明では、このような重傷を負ったあとで数分以上生存することは、誰にとっても不可能であると述べられた。また、地元のニュース局がレノンの死を報道すると、病院とダコタ・ハウスの前に群衆が集まり始めた。レノンは死から2日後の1980年12月10日、ニューヨーク州ウエストチェスター郡ファーンクリフ墓地火葬遺灰はヨーコに渡されたが、ヨーコ自身はレノンの葬儀を執り行わないことを決めた。全米にレノンの死を伝えた最初の報道は、 ABCNFL中継番「マンデーナイトフットボール」での、コメンテーターのハワード・コーセル(英語版)によるアナウンスだった。
事件当日の出来事
1980年12月8日(月)

写真家のアニー・リーボヴィッツが、雑誌『ローリング・ストーン』の写真撮影を行うため、レノンの自宅を訪れた[4]。リーボヴィッツは当初、レノン単独の撮影をしようとしていた。リーボヴィッツは「ヨーコの写真が表紙に載ることを誰も望んでいなかった」と述べている[5]。しかし、レノンがヨーコが共に表紙に載ることを強く主張した[5]ため、リーボヴィッツはヨーコと共同の写真を撮影することにしたという[6]。撮影終了後の15時30分、リーボヴィッツはダコタ・ハウスを出た[4]。この写真撮影後、レノンはRKOラジオ・ネットワーク(英語版)の音楽番組で放送されるサンフランシスコDJ、デーヴ・ショリン(Dave Sholin)によるインタビューに応じたが、本インタビューが最後のインタビューとなったのである[7]。インタビューが終了した17時40分、迎えのリムジンが遅れて到着、レノンとヨーコは「Walking on Thin Ice(英語版)」[8]のミキシング作業を行うため レコード・プラント・スタジオに直行した[9]
マーク・デイヴィッド・チャップマン詳細は「マーク・チャップマン」を参照

レノンがRKOラジオ・ネットワークのスタッフと共にリムジンに向かう途中、レノンのサインを求める人が数名近づいてきた。その中の1人に犯人のマーク・デイヴィッド・チャップマンがいた[10]。このころ、ダコタ・ハウスの外でファンがレノンを待ち構え、サインをねだるという光景はよくあることだった[11]ハワイのホノルルから来た当時25歳の警備員チャップマンは、その年の10月にもレノンの殺害を実行するためニューヨークを訪れていたが、そのときは心変わりして帰郷したとのこと[12]。チャップマンはレノンにアルバム『ダブル・ファンタジー』を無言で手渡し、レノンがそれにサインした[10]。サインし終えたレノンが「君がほしいのはこれだけかい?」と尋ねると、チャップマンは笑顔で頷いた。写真家でレノンのファンでもあるポール・ゴレシュ(Paul Goresh)は、この瞬間を写真に収めている[13]。この時レノンがサインした「ダブル・ファンタジー」は証拠品として警察に押収、後にオークションへ出品。1999年に15万ドルで売却された後、2010年に85万ドル、2017年には150万ドルで売りに出された[14]

チャップマンは、同日の午前中からダコタ・ハウスの外でレノンを待ち構えており、午後にはベビーシッターのヘレン・シーマン(Helen Seaman)と共に帰宅したレノンの息子のショーン(当時5歳)にも遭遇している。チャップマンによれば、彼はショーンの手を、ちょっとの間触ったという[15]

レノン夫妻は22時50分頃にダコタ・ハウスに戻るまで、数時間レコード・プラント・スタジオで過ごした[16]。レノンは急遽ショーンにおやすみのあいさつをするために一旦ダコタ・ハウスに戻り、ヨーコとともに近くのレストランステージ・デリ(英語版)へ向かうことにした[16]。レノンは長い時間待つファンに対し、誰にでもサインや写真撮影に応じていた。レノンは、2日前の1980年12月6日BBCラジオ1でのインタビューで、DJのアンディー・ピーブルズ(英語版)[17]に対し「みんなやって来てはサインをねだったり、'ハイ'とあいさつしたりするだけで、困るようなことをするわけじゃない」と話している[4]。そのため、レノン夫妻はダコタ・ハウスのより安全な中庭でリムジンを停車させる代わりに、手前の72丁目(英語版)で車を降りた[18]
殺害

ダコタ・ハウスのドアマンで元CIAのエージェントのホセ・サンヘニス・ペルドモ(スペイン語版)と付近にいたタクシー運転手は、チャップマンが歩道上で玄関アーチの陰に潜んで立っていたのを目撃していた。レノンはチャップマンの前を通り過ぎる際、チャップマンを一瞥し、数時間前に会ったことを思い出していたようであったという[19]。その数秒後、チャップマンはチャーター・アームズ社(英語版)製の.38スペシャル弾回転式拳銃アンダーカバーでレノンの背中の中央に狙いを定め、 ホローポイント弾を5発、およそ3メートル(9?10フィート)離れたところから立て続けに発射した[1]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:112 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef