ジョン・レディー・ブラック
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ジョン・レディー・ブラック(John Reddie Black、1826年1月8日[1] - 1880年6月11日)は、スコットランド生まれの出版者、ジャーナリスト作家写真家歌手。彼のキャリアの多くは中国日本で費やされ、2週間に1回の頻度で写真入りのニュース雑誌『ファー・イースト The Far East』を含むいくつかの新聞を出版した[2]
経歴・人物
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ブラックはスコットランドのディザートイギリス人の両親に生まれた。ブラックの初期の人生はほとんど知られていないが、1854年に彼はイギリス海軍の将校としてのキャリアの可能性を放棄し、妻と一緒にオーストラリアに移住した。初期の仕事に失敗すると、ブラックは歌手としてのキャリアを始めた[3]。そして、オーストラリア、インド、中国を回り、日本でツアーを終えた。 1864年香港上海での公演は、同年の6月7月の横浜での公演と同様に、地元のマスコミから大変な評判を呼んだ。彼は日本で生活するつもりはなかったが、11年以上そこに留まることになった[4]
日本での活動

1864年、横浜外国人居留地での『ジャパン・ヘラルド The Japan Herald』(日本で最初の英字新聞)の所有者であるアルバート・ハンサードは、ブラックにその紙面でオークションビジネスの仕事を提供し、1865年にはこの新聞の共同経営者に迎え入れた[5]1867年、ハンサードとブラックのパートナーシップは破産を宣言したが、同年、ブラックは自らの手で『ジャパン・ガセット The Japan Gazette』という新聞を設立した。これは幕末の劇的な改革運動を報道する夕刊紙だった[6]。彼は1870年に「極東と世界の最も古い帝国王朝の主題との間の親善と兄弟愛」を促進する目的で、『ファー・イースト The Far East』誌を東京を拠点に設立した[7]。初版は1870年5月30日号であった[5]

『ファー・イースト The Far East』は、日本の歴史芸術マナー習慣に関する記事を提供しており、写真製版がまだ始まったばかりの当時、添付されたオリジナルの写真で説明されていた点で特筆べきものであった。新聞の社内写真家はオーストリア人ミヒャエル・モーザーだったが、アマチュア写真家のブラックはモーザーの画像を自分のもので補った[8]。作品が新聞にも掲載された重要な写真家には、 内田九一鈴木真一 [9]、およびウィリアム・サンダースが含まれていた [10]。ブラックは、『ファー・イースト The Far East』の出版の初期の困難のいくつかに言及している。それは、日本人写真家が撮影した写真は、地元の天候の有害な影響、適切な写真用化学薬品と紙の劣悪と希少性、および生成された画像の質の悪さ(彼の目に)であった。 1873年まで、ブラックは写真の継続料金を支払うことができなかったり、または、支払いたがらなかった。しかし、1873年から、彼は出版した写真に対して「謝礼金」を支払い始めた[11]1874年7月から、『ファー・イースト The Far East』は上海でも出版された。したがって、新聞に登場する被写体は、それから主に中国人となった[12]1878年12月以降、『ファー・イースト The Far East』が出版された形跡はない[13]

『ファー・イースト The Far East』を設立して間もなく、『ジャパン・ガセット The Japan Gazzete』を維持しながら[14]、ブラックは日本語の新聞の発行に取り組んた。彼は外国人居留地の他の居住者からこの努力に対してほとんど支援を受けなかったが、日本語で出版された質の高い新聞の必要性を確信し[15] 、日本語と経営に精通したポルトガル人の友人フランシスコ・ダ・ローザの助けを借りて、また日本人編集者とともに、彼は政府から『日新真事誌 Nisshin Shinjishi』出版の許可を取って設立した [16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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