ジョン・レイ
John Ray
生誕1627年11月29日
イングランド王国、エセックス州、ブラック・ノットリー
ジョン・レイ(John Ray、1627年11月29日 - 1705年1月17日)は、イングランドの博物学者で「イングランド博物学の父」とも呼ばれる。植物学、動物学、自然神学などの重要な著作を出版した。『植物誌』(Historia Plantarum)での植物の分類は近代分類学への重要な一歩となった。予め考案された二分論的な体系に植物を当てはめていくのではなく、観察に基づいた類似点と相違点に応じて植物を分類した。すなわち、スコラ学の合理主義的推論を排して科学的経験論を促進させた。また「種 (species)」という言葉に初めて生物学的定義を与えた[1]。
1670年までは姓を Wray と綴っていた。その後、自身の家系を調べてかつての本当の綴り方が Ray だったことを確かめた上で綴りを替えた[2]。 エセックス州ブレントリー 1661年の統一令により、レイは1662年にフェローシップを放棄せざるを得なくなった。そのころ、アイザック・ニュートンがカレッジに入学している。それ以降レイは教え子のウィラビーに雇われる形になり、ウィラビーの死後はその2人の息子の教育責任者として年に6シリングを遺贈された。 1663年春、ウィラビーや他の2人の教え子と共にヨーロッパ旅行に出て、1666年3月に戻った。その後も旅行続けたウィラビーとはモンペリエで別れた。それ以前にも3回(1658年、1661年、1662年)にわたってグレートブリテン島の大部分を回ったことがあり、それらの旅の個人的記録を後にジョージ・ルイス・スコットが編集し Mr Ray's Itineraries と題して1760年に出版した。レイ自身は海外旅行の記録を Observations topographical, moral, and physiological, made on a Journey through part of the Low Countries, Germany, Italy, and France と題して1673年に出版。この旅行でレイとウィラビーは大量の動植物のコレクションを持ち帰っており、それらに基づいて動植物の完全な体系を構築することを構想していた。ウィラビーはそのうちの動物関係を引き受けたが、鳥類と魚類について何とかまとめただけで1672年に亡くなった。植物についてはレイがまず Methodus plantarum nova (1682) を著し、その後3巻の大作 Historia generalis plantarum (1686, 1688, 1704) をまとめた。ブリテン島を回った旅行で集めた植物についてはそれ以前に Catalogus plantarum Angliae (1670) にまとめており、その後のイギリスの植物相研究の基盤となっている。 1667年、王立協会フェローに選ばれ[5]、1669年にはウィラビーと共同で書いた Experiments concerning the Motion of Sap in Trees(木の中の樹液の動きに関する実験)という論文がフィロソフィカル・トランザクションズ誌に掲載された。彼らは樹液が吸い上げられて白いゼリー状の凝固物を形成し、それが樹皮と本体の間に層を作って木質に変化したり、葉や果実の元になっていると考えた。王立協会への入会後間もなく、主教で王立協会創設者の1人であるジョン・ウィルキンズ
前半生
経歴
1673年、結婚。1676年、サットン・コールドフィールドに移り、1677年にはエセックスの Falborne Hall に移った。1679年、故郷のブラック・ノットリーに移り、死ぬまでそこで過ごした。病気がちではあったが、平穏無事に本を執筆し続けた。1844年、博物学の著作出版を目的としてジョン・レイの名を冠したレイ協会が創設された。 レイは「種とは何か」を生物学的に定義した最初の人物である。1686年の『植物誌』には次のように記されている。…私にとって種を決定する確実な基準は、それら自身が種から成長して存続していくための際立った特徴以外になかった。従って、同じ植物の種から異なる特徴を有するものが成長したとしても、それは偶然の派生であり、種として区別するほどの意味はない… 同様に動物も個々の種は固有の特徴を恒久的に保持する。ある種が別の種から湧き出てくることはなく、逆も同様である。[6] レイは23の著作を出版しているが、数え方によっては若干差異が生じる。生物学上の著作はラテン語で書き、その他は英語で書いた。以下の一覧では全ての書名を英語で簡単に記している[7]。
レイによる種の定義
著作
1660: Catalogue of Cambridge plants.
1668: Tables of plants
1668: Catalogue of English plants plus Fasiculus (an appendix)
1670: Catalogue of English proverbs.
1673: Observations in the Low Countries and Catalogue of plants not native to England.
1674: Collection of English words not generally used.
1675: Trilingual dictionary, or nomenclator classicus.
1676: Willughby's Ornithologia. - フランシス・ウィラビーの遺稿を元にレイが編集した本[7]p52 [8]Chapter 12 「ウィラビーとレイは科学的な鳥類学の基礎を築いた」[9]
1682: New method of plants.
1686: History of fishes
1686?1704: History of plants. 3 vols, vol 1 1686, vol 2 1688, vol 3 1704.
1690: Synopsis of British plants.
1691: The wisdom of God. 2nd ed 1692, 3rd ed 1701, 4th ed 1704 - レイの著作の中でも最も広く読まれた。後に自然神学
1692: Miscellaneous discourses concerning the dissolution and changes of the world. - 化石についての重要な記述がある。レイは友人たちの意見に反して、化石はかつて生きていた生物の名残(骨格)だと主張した。Raven はこれを高く評価している[8]p426。
1713 Three Physico-theological discourses. - Miscellaneous discourses の第3版。レイの生前最後の改訂版を死後に出版。重要な点は、レイが神学論争に巻き込まれたため、化石についての見解を撤回した点である[10]p37。同時代人ではニコラウス・ステノのようにロバート・フックも化石が生物起源だと信じていた。フックはアンモナイトの化石などについて、絶滅した種に属するとしていた。レイの化石に関する見解はフックの主張に基づくものだった[11]p327。
1693: Synopsis of animals and reptiles.
1693: Collection of travels.
1694: Collection of European plants.
1695: Plants of each county (Camden's Brittania).
1696: Brief dissertation.