ジョン・ランドルフ
John Randolph of Roanoke
第8代在ロシアアメリカ合衆国大使
任期
1830年5月26日 ? 1830年9月19日
大統領アンドリュー・ジャクソン
前任者ヘンリー・ミドルトン
ジョン・ランドルフ(英: John Randolph of Roanoke、通称ロアノークのジョン・ランドルフ[1]、1773年6月2日-1833年5月24日)は、アメリカ合衆国バージニア州出身の農園主および政治家であり、アメリカ合衆国下院議員および上院議員、さらには短期間だが在ロシアアメリカ合衆国大使を務めた。アメリカ合衆国下院において、トーマス・ジェファーソンの広報担当官を務めた後、1803年にはジェファーソンと訣別し、民主共和党の中で、中央政府の役割を制限し、州の権限擁護について先駆者となる「オールド・レパブリカン」あるいは「クイッド」と呼ばれた派閥の指導者になった[2]。特に1798年原則を推進した。この原則は、中央政府の法や布告の合憲性についてを個々の州が判断でき、それが違憲であるときは執行を拒否できるとしたものだった。
ランドルフはいたずら好きな機知に富み、頭の回転の速い雄弁家として共和主義を信奉し、アメリカ合衆国議会議員を務めた30年間を通じて商業的農本社会を提唱した。ランドルフの保守的な姿勢は、地主郷士の負債に反対し、その権利を守る議論に表されており、生まれたバージニア州南部における家産と最高のエリート的価値観に結びついていることに帰せられてきた。米英戦争(1812年-1815年)やミズーリ妥協(1820年)には激しく反対した。関税、製造業、通貨に関する議論では活発だった。奴隷制度に関しては複雑なものがあり、1816年に解放した黒人をアフリカの植民地に送るために設立したアメリカ植民地協会では、設立者の一人だった。奴隷貿易には反対したが、自分のタバコ・プランテーションでは数百人の奴隷労働に依存していた。その遺志で奴隷の解放とオハイオ州への移住を行わせた。
バージニア州の選挙民はランドルフの激しい性格と活発な選挙運動を楽しんでいた。楽しませ、また啓蒙するような弁論、社交性、および特に農業における興味の集まりでヨーマン(自営農)に直接訴え、ランドルフの個人的な欠陥があるにも拘わらず、有権者を長く惹きつけておくことになった。小さな政府を守ろうとしたことは、当時も今も、例えばラッセル・カーク(1918年-1994年)のような保守派に訴えるものがある。 ランドルフはバージニア州コーソンズ(現在のホープウェル)で生まれた。父はタバコ農園主ジョン・ランドルフ(1742年-1775年)、母はフランシス・ブランド(1744年-1788年)だった。どちらの家系もバージニアの第一世代家系に属する、ランドルフ家とブランド家であり、互いに姻戚関係も多かった。ランドルフ家の祖父はリチャード・ランドルフであり、その祖父はウィリアム・ランドルフだった。ブランド家の祖父はコーソンズのセオドリック・ブランドであり、その曽祖母はターキー島
生い立ち
第一次大陸会議の柱石だったリチャード・ブランドとペイトン・ランドルフにとっては従兄弟甥であり、合衆国下院議員のセオドリック・ブランドの甥、トマス・チューダー・タッカーの継甥、ヘンリー・セントジョージ・タッカー・シニアとナサニエル・バーバリ・タッカーとは異父兄弟であり、トーマス・ジェファーソンはその母がアイシャム・ランドルフの娘だったので従兄弟にあたった。継父のセントジョージ・タッカーは未亡人となっていた母と1778年に結婚した。母方の4代先祖はバージニア知事のリチャード・ベネットであり、クロムウェル護国卿時代にその職に選ばれ、1672年にジョージ・フォックスによってクエーカー運動に改宗したピューリタンだった。
ランドルフは若いときに病気になり、髭が無く、声が高かった。最初は家庭教師に付いて学び、ウォルター・モーリーの私学に入り、その後ニュージャージーのカレッジとニューヨーク市のコロンビア・カレッジに進学した。フィラデルフィアでは法律を学んだが、実務を行うことはなかった。
ランドルフはポウハタン酋長の孫であるトマス・ロルフの子孫である[5]。
ランドルフの墓所はリッチモンドのハリウッド墓地である。 ランドルフは26歳という異常な若さでアメリカ合衆国第6議会の議員に選出され、その後6期連続して(1799年-1813年)務めた。ニューハンプシャー州出身の連邦党員ウィリアム・プラマーは、その衝撃的な登場に関して1803年に次のように記した。ランドルフ氏はブーツを履き、拍車を付け、手に鞭を持って下院に行っており、イギリス議会の一員の真似だと言われている。大変ほっそりしているが普通の背丈である。少し離れると年上には見えない。しかし近づくとその皺や灰色の髪が見える。30歳くらいだと思われる。著名なインディアンの王女ポカホンタスの直系の子孫である。連邦党員は彼を冷やかし、軽蔑している振りをするが、軽蔑された敵が危険な敵であることが多い。確かにその才能は月並みなものを遥かに超えている。人気のある演説家として下院の誰にも劣っていない。私は彼の創造力と演説を賞賛するが、彼の政治は嫌いである。 ランドルフは第7議会から第9議会まで下院歳入委員会の議長を務め、民主共和党指導者の代行を務めた。1806年に従兄弟であるトーマス・ジェファーソン大統領と訣別した後、民主共和党の派閥であるターシャム・クイッド(第3のもの)を作った。この派は、1798年の原則への帰還を要求し、忍び寄る国家主義と考えられるものを否認した。
政歴