ジョン・ラッセル_(初代ラッセル伯爵)
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イギリス政治家初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセルJohn Russell, 1st Earl Russell
初代ラッセル伯(ジョン・ジェイベズ・エドウィン・メイオール(英語版)撮影)
生年月日1792年8月18日
出生地 グレートブリテン王国ロンドンメイフェア
没年月日1878年5月28日 (満85歳没)
死没地 イギリスサリー州、リッチモンド公園、ペンブローク・ロッジ
出身校エディンバラ大学
所属政党ホイッグ党自由党
称号ガーター勲章勲爵士 (KG)
聖マイケル・聖ジョージ勲章一等勲爵士 (GCMG)
枢密顧問官 (PC)
配偶者(1) アデレード・リスター
(2) レディ・フランセス・エリオット
親族第4代ベッドフォード公爵 (曽祖父)
第6代ベッドフォード公爵 (父)
第2代ミントー伯爵 (義父)
第3代ラッセル伯爵(孫)
サイン
首相
在任期間1846年7月6日 - 1852年2月20日
1865年10月30日 - 1866年6月26日[1]
女王ヴィクトリア
外務大臣
内閣アバディーン伯爵内閣
第二次パーマストン子爵内閣
在任期間1852年12月28日 - 1853年2月21日
1859年6月18日 - 1865年10月30日[1]
貴族院議員
在任期間1861年 - 1878年[2]
庶民院議員
選挙区タヴィストック選挙区(英語版)
タヴィストック選挙区(英語版)
ハンティンドンシャー選挙区(英語版)
バンドン選挙区(英語版)
タヴィストック選挙区(英語版)
デヴォンシャー選挙区(英語版)
サウス・デヴォン選挙区(英語版)
ストラウド選挙区(英語版)
シティ・オブ・ロンドン選挙区(英語版)[2]
在任期間1813年5月4日 - 1817年3月12日
1818年6月18日 - 1820年12月31日
1820年3月16日 - 1826年6月20日
1826年12月19日 - 1830年8月7日
1830年11月27日 - 1831年7月13日
1831年5月10日 - 1832年12月10日
1832年12月10日 - 1835年1月6日
1835年5月19日 - 1841年6月29日
1841年6月29日 - 1861年7月27日[2]
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初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセル(John Russell, 1st Earl Russell, KG, GCMG, PC, FRS1792年8月18日 - 1878年5月28日)は、イギリス政治家貴族

ホイッグ党自由党の前身)の改革派として名を馳せ、メルバーン子爵退任後にホイッグ党首となり、1846年に首相となったが、パーマストン子爵と対立を深め、党内が分裂状態となり、1852年2月に総辞職した。

ついで1852年12月成立のピール派とホイッグ党の連立政権アバディーン伯爵内閣に外務大臣として入閣。1855年2月にパーマストン子爵が首相となるとホイッグ党首の座も彼に譲る。ホイッグ党が野党だった頃の1859年6月にパーマストンと和解して自由党結成と保守党政権打倒に貢献した。第二次パーマストン内閣に外務大臣として入閣し、パーマストンが1865年に死去すると代わって首相・自由党党首となったが、翌1866年に選挙法改正に失敗して総辞職した。1867年に自由党党首の座をグラッドストンに譲った。

1861年までは儀礼称号を付けて「ジョン・ラッセル卿」と称されていた[注釈 1]。哲学者の第3代ラッセル伯爵バートランド・ラッセルは孫にあたる。
経歴
生い立ち

第6代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセルと最初の妻ジョージアナ・ビングの三男として生まれた[3]イングランド有数の富豪であり、17世紀以来ホイッグ党の政治家を輩出してきたラッセル家出身であったが、三男の彼には一族の所領を継承する見込みはなかった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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