サー
ジョン・モーティマー
John Mortimer
CBE QC
サー・ジョン・クリフォード・モーティマー(Sir John Clifford Mortimer CBE QC FRSL (1923年4月21日 ? 2009年1月16日))[1]は、イギリスの法廷弁護士、劇作家、脚本家及び作家である。 ロンドンのハムステッドに、キャスリーン・メイ(旧姓スミス)と(ハーバート・)クリフォード・モーティマーの間の一人息子として生まれる。父親のクリフォードは、離婚と遺言書検認を専門とする法廷弁護士であったが[2][3]、1936年ロンドンタクシーのドアフレームに頭をぶつけて失明した。もっとも、その後も妻らの助力を得て従前どおり業務を継続していたことから、他の家族はクリフォードの視力喪失の事実を明確には認識していなかったという[4]。 モーティマーは、オックスフォードのドラゴン・スクール
生い立ち
17歳で、オックスフォード大学ブレーズノーズ・カレッジに進学し、法学を専攻する。もっとも、ブレーズノーズの校舎は戦時体制下で戦争の用に供されていたため、実際に通っていたのはクライスト・チャーチであった[8]。1942年7月、大学2年目の終わりに、ブラッドフィールド・カレッジ(英語版)第6学年生クエンティン・エドワーズ(英語版)(後に王室顧問弁護士(英語版)(QC)となる[9])へと熱烈な恋文を送ったことが寮長の知るところとなった。その結果、クライスト・チャーチの部局長ジョン・ロウによってオックスフォード大学を放校処分となるが[6]、既に必要な試験は受け終わっていたことから、1943年10月、法学の教養学士取得は何とか認められた。親しい友人だったマイケル・ハムバーガー(英語版)によれば、この事件の際、モーティマーは非常に手ひどく扱われたという[10][* 1]。 弱視でかつ肺の異常も疑われたことから、モーティマーは第二次世界大戦時の徴兵検査で医学的に不適とされる[5][5]そのため、王室映画部門
作家として(前半生)
私はロンドンに暮らし、真っ暗な列車に乗って工場へ、鉱山へ、陸軍空軍基地へと旅をした。ローリー・リーのおかげで、この時期私は物書きのみによって生計を立てることができたわけだが、それが結局自分の人生における最初にして唯一の機会となった。もしかすると、私は過去にドキュメンタリーの理想というものを批判したことがあるかもしれないが、それをもって王室映画部門に対して私が不満を抱いていたかのように受け取られることは本意ではない。