ジョン・モルガン
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ジョン・ピアポント・モルガン
J. P. Morgan
ジョン・ピアポント・モルガン
生誕1837年4月17日
アメリカ合衆国 コネチカット州 ハートフォード
死没1913年3月31日 (75歳)
イタリア王国 ローマ
職業投資家 銀行家
配偶者フランシス・ルイーズ・トレイシー
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ジョン・ピアポント・モルガン(John Pierpont Morgan、1837年4月17日 - 1913年3月31日)は、アメリカのモルガン財閥の創始者である。金融王と称えられた。
概要モルガンの経済界における権力は、連邦政府より大きいと認識されており、この戯画では小さなアンクル・サム(アメリカを擬人化した人物)と大きなモルガン、即ちアメリカ全体より大きなモルガンとして描かれている。1881年。

ゲッティンゲン大学を卒業後、ロンドンで父が起こしたJ・S・モルガン・アンド・カンパニーを受け継ぎ、19世紀末には世界最大の銀行家となった。その豊富な資金力を活かして多くの鉄道を経営・統合し、USスチールも設立した。19世紀末にアメリカ最大の財閥の1つとなった。海運・電力・通信事業にも進出した。
生誕から青年まで若き日のモルガン.

ジョン・ピアポント・モルガンはコネチカット州ハートフォードで生まれた。父はマサチューセッツ州ホールヨーク出身の銀行家ジューニアス・スペンサー・モルガン、母は教会の牧師の娘だったジュリエット・ピアポント。

ピアポントは、父・ジューニアスにより種々の教育を授けられ、1848年秋、ハートフォード・パブリック・スクールに転科した後、チェシャの英国国教会アカデミーに首席で進学。1851年9月には、キャリアとなるために有効な数学に秀でているイングリッシュ・ハイスクールへ入学した。

1852年9月、リウマチ熱に罹患し、歩けないほどになった。ジューニアスはすぐに船を手配し、モルガンをポルトガル北部のアゾレス諸島に転移療養させた。約1年後に回復し、投資信託のメッカであるボストンに戻って勉学を続けた。

ハイスクール卒業後、ジューニアスによりスイスヴェヴェイ近くにある学校に進学した。流暢なフランス語を取得後、今度はドイツ語取得のためにゲッティンゲン大学に進学した。6ヶ月である程度のレベルに達し、芸術の歴史もかじったあとロンドンに戻り、学業を修了した。

1857年、モルガンは父の経営する銀行のロンドン支店に入社。翌年、ニューヨークに移り、ジョージ・ピーボディ・アンド・カンパニーのアメリカ代理店であるダンカン・シェアマン・アンド・カンパニーに勤務(ジョージ・ピーボディを参照)。1860年、J・P・モルガン・アンド・カンパニーを設立し、父の会社のニューヨーク代理店のエージェントの役割を果たした。南北戦争時の翌年、モルガンは旧式のライフルを1挺3.50ドルで購入し、改良したのちに22ドルで北軍に売却してスキャンダルになった(ホール・カービン事件)。ハートフォード・パブリック・スクールの教師を人脈にもっていたモルガンは、教師の親戚サイモン・スチーブンスを代理人に立ててライフル購入資金を貸し付けていた[1]。モルガン自身は他の富裕層同様、1000ドルを代理人に支払うことで兵役を免れていた。

1864年、ダブニー・モルガン・アンド・カンパニーをつくった。1871年フィラデルフィアの銀行家であるアンソニー・J・ドレクセル(Anthony Joseph Drexel I)と提携し、ドレクセル・モルガン・アンド・カンパニーを設立した。ドレクセルが1893年に死去した後、1895年にJ・P・モルガン・アンド・カンパニー(現JPモルガン・チェース)となる。
鉄道トラストとモルガニゼーション

モルガンの権力志向はダイナミックな金融の競争において見られた。1869年ジェイ・グールドとジム・フィスクからアルバニー・アンド・サスケハナ鉄道の経営を奪取。モルガンは株を引き受けるシンジケートを率いて、ジェイ・クックが独占していた政府の資金調達の役割を奪取。また、鉄道開発への投資に深く関わるようになる。

1885年、モルガンはニューヨーク・ウェスト・ショア・アンド・バッファロー鉄道を再建し、ニューヨーク・セントラル鉄道(NYC)に貸し付けた。1886年にはフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道を、1888年にはチェサピーク・アンド・オハイオ鉄道(C&O)を再建した。そしてジェームズ・ジェローム・ヒルとともにグレート・ノーザン鉄道(GN)の経営に深く関わっていく。

1887年州際通商法が成立した後、モルガンは1889年1890年に鉄道会社の首脳を集めた会議を開き、各鉄道会社が新法に合わせた営業活動を行うことと、「公共的で、安価で、一定で、安定した運賃」を維持するための協定を結んだ。この会議は競合する鉄道会社同士のコミュニティとして機能し、20世紀初頭の鉄道の大再編への道筋となるものであった。

このような、モルガンの行った経営困難に陥っている鉄道を再建させる手法はモルガニゼーションと呼ばれた[2]。モルガンは事業の骨格とマネジメントを再編し、利益が出せるようにした。モルガンの銀行家としての名声は投資家たちの興味を誘い、モルガンが手がける事業に目を向けさせた[3]

こうしたトラスト形成の過程で、1901年にはエドワード・ヘンリー・ハリマンとの間でシカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道(CB&Q)の争奪戦が起こり、ノーザン・パシフィック・コーナーと呼ばれる株式の異常高騰を誘発した。これは1901年恐慌へ発展した。
合衆国の「中央銀行」として

1895年1893年恐慌の影響でアメリカ合衆国財務省が保有していたの海外流出が続き、底を突きかけた。シャーマン銀購入法により、アメリカが事実上の金銀複本位制をとったために、ヨーロッパにおいてアメリカの有価証券に対する信用が落ち、ヨーロッパの資本家が金に換えてしまったのである。

当時の民主党グロバー・クリーブランドアメリカ合衆国大統領は、モルガンにウォール街のシンジケート(債権を引き受ける銀行団)を組織し、財務省に6,500万ドルの金を調達するよう要請[4]。その半分はヨーロッパから調達し、財務省の1億ドルの債権の信用回復に使用されることとされた。このエピソードが、ヨーロッパ資本の引き上げ傾向に歯止めをかけて財務省を救済したが、クリーブランドにダメージを与え、1896年の大統領選挙において同じ民主党のウィリアム・ジェニングス・ブライアンにより激しい非難を浴びた。モルガンとウォール街の銀行家たちは共和党のウィリアム・マッキンリーに多額の寄付を行い、マッキンリーは同年と、金本位制をうたった1900年の大統領選で勝利した[5]。マッキンリーは反トラスト法を発動させない、経済界にとっては都合のいい大統領であった。

セオドア・ルーズベルト大統領は不当なトラストに対して、それまで使われることのなかったシャーマン反トラスト法を発動し、企業の集中化を牽制した[6]


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