ジョン・マーティン
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この項目では、イギリスの画家について説明しています。その他の用法については「ジョン・マーティン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ジョン・マーティン
John Martin
ジョン・マーティンの肖像
ヘンリー・ウォーレン、1839年
誕生日 (1789-07-19) 1789年7月19日
出生地 イギリス ヘイドン・ブリッジ
死没年1854年2月17日(1854-02-17)(64歳)
死没地 イギリス マン島ダグラス
国籍 イギリス
運動・動向ロマン派
芸術分野絵画
代表作ギベオンの上に止まれと太陽に命ずるヨシュア、ベルシャザルの饗宴、バビロンの陥落
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出典検索?: "ジョン・マーティン" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2012年4月)

ジョン・マーティン(英:John Martin, 1789年7月19日 - 1854年2月17日)は、19世紀の英国人のロマン派の画家、版画家、都市計画家。イングランド最北部のノーサンバーランド州 ヘイドン・ブリッジの郊外、イースト・ランデンズで十三人兄弟の末っ子として生まる。ニューカッスルで絵画の技法を学んだ後ロンドンに出て、ガラスや磁器の絵付けに従事した。1811年、23歳の時からロイヤル・アカデミーに絵画を出品し、1812年の『忘却の水を探し求めるサダク』の様に画面いっぱいに壮大な風景を描き出し、それによって天変地異の圧倒的な力や破局的な様相を現出させている画風で注目を集め[1]、更に1820年作の『ベルシャザルの饗宴(英語版)』の成功で人気画家となった。旧約聖書、ミルトンの『失楽園』の挿絵入り本や油絵をもとにした版画作品は広く流布した。1828年頃から次第に画から離れ、ロンドンの上下水道や鉄道線などの都市計画や発明に関わるようになったが、その結果破産同然となった。死の数年前から絵の作成を再開し代表作のひとつとなる『最後の審判三部作』を発表した[2]
関係者
妻子

スーザン:妻、1812年に結婚。マーティンとの間に8人の子供があり、うち6人が成人に達した。

長男フェンウィック:1813年没。

長女イザベラ:1813年生。

次男ジョン:1813年生、1814年没。

三男アルフレッド:メゾチント版画家としての父親と一緒に働いていた。後に上級税務官となった。

次女ゼノビア :芸術家のピーター・カニンガムと結婚した。

四男レオポルド:父の秘書役を務めた。

五男チャールズ:1825年生、父の下で画家としての訓練を受け、多くの作品をコピーした。後にアメリカに移り住み肖像画家として成功した。ロイヤル・アカデミーで彼の最後の展示は1896年である。

三女ジェシー:1830年生、エジプト学者ジョセフ・ボノミ
(英語版)と結婚した。

レオポルド

彼の名付けの親はマーティンが1815年頃ロンドンのメリルボーン・ハイ・ストリートで下宿をしていた時に出会い、助力をしてくれたベルギーの将来の国王レオポルド1世 (ベルギー王)であった。彼は父の散歩や訪問にしばしば同行しており、後に1889年に出版されたニューカッスルウィークリークロニクルの補足に父親の思い出のシリーズを書いている。その中には画家のジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーブルネル賞で有名な鉄道技術者イザムバード・キングダム・ブルネル、政治評論家・著作家で無政府主義の先駆者ウィリアム・ゴドウィンや物理学・電気工学者のチャールズ・ホイートストンとの逸話が含まれている。彼はルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の挿絵や風刺漫画誌『パンチ』で数多くの風刺漫画を手がけたことで知られるジョン・テニエルと友達でテニエルの妹と結婚した。
親兄弟

ジョン・マーティンは13人兄弟であったが、そのうち大人まで成長したのはジョンを含め男4人女1人の5人であった。マーティンの兄弟たちは総じて、父親からは激しい気性とあふれんばかりの情熱を、母親からは篤い信仰心と高い精神性を受け継いだとおぼしい

父(1750以前-1813)はウィリアム・フェニック・マーティンといって放浪癖のある”何でも屋”で、妻のイザベラ・リドリーと駆け落ちした後も一ヶ所に落ち着く事はなかった。始め革なめし工をしていたが、アメリカ独立戦争に従軍しながらわずか三ヵ月で負傷のために除隊してからは、いたって腰が軽くなり、フェンシングやシングル・スティックの指導者(長男のウイリアムによると「剣士やボクサーとしてどんな男を恐れていない」)、更には行商人、居酒屋(宿屋?)、馬車製造者、行商人や山番とさまざまな職に手をそめた [2]

母(1750-1813)のイザベラは地主リチャード・トンプスンの娘だが、両親の反対に耳をかさず、駆け落ちしてウィリアムと結ばれた。トンプスン家はプロテスタントの殉教者ニコラス・リドリイの末裔にあたることから、プロテスタントの伝統を根強くのこしており、イザベラも毎日2回の祈りを欠かすことなく、子供たちにもよく聖書を語り聞かせた[2]。彼女にとって旧約聖書は毎日の行動のために必要なすべてのルールを提供するものであった。「そこには奉仕するべき神と避けるために地獄があり、すべての嘘つきとののしる者は、悪魔とその使いたちと共に地獄で燃やされる」という格言および聖書の知識に代表される彼女の影響はジョン・マーティンの絵画だけでなく、他の子供たちの永続的な宗教志向の源となった。1813年に亡くなるまぎわ、天上の音楽を耳にし、マーティン家の名前が世界じゅうに知れ渡るようになると告げて、安らかに息をひきとったという [2]
ウイリアム

長兄(1772年6月21日?1851年2月9日)、自然哲学者、詩人:彼はロープ製造、兵士、発明家、科学者、作家、講師など職業がたびたび替わったが、永久機関は製造可能であるとし、また万有引力の法則を否定して"アイザック・ニュートン"の科学に対抗する哲学を開発しようとし1821年に「永久運動の原理による自然哲学の新しいシステム」と題する本を出版した。この様な山師的性格にもかかわらず、彼は発明の偉大な才能を持っており、1819年に彼はサー・ハンフリー・デービーが1815年に発明したデービー灯より良く、信頼性が高いと言われていた鉱山作業用の安全ランプを生産した。また、この分野での業績として数値を円盤型で表示するばねばかりの発明により1814年に王立協会から銀メダルを貰った事があげられる[2]。その後詩200点以上の宗教的テーマな詩のパンフレット出版や種々の発明を行い、1851年2月9日にジョン・マーティンの家で亡くなった[2]
リチャード

次兄(1779-1837):彼は人生の殆どを軍隊で過ごし、操舵手兵として スペイン独立戦争(1808年 - 1814年)とワーテルローの戦いに従軍した[2]。尚、近衛歩兵第一連隊の兵站部付き軍曹との説もある。
ジョナサン

三兄 (1782?1838年5月27日) :1829年2月2日にヨーク大聖堂を放火した事で悪名を馳せた。放火後すぐに逮捕されたが、裁判では精神異常を理由に首つり縄を免れ、死ぬ迄ロンドンの聖ルーク精神病院(英語版)に監禁された。この時の裁判の弁護費用はジョン・マーティンが支払らった[3]


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