ジョン・マクレイ
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ジョン・マクレイ
John McCrae
1914年ごろのマクレイ
誕生1872年11月30日
カナダオンタリオ州ゲルフ
死没 (1918-01-28) 1918年1月28日(45歳没)
フランスブローニュ=シュル=メール
職業詩人、医師、軍人
言語英語
最終学歴トロント大学
代表作『フランダースの野に(英語版)』
親族トーマス・マクレイ(英語版)(兄)
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ジョン・マクレイ(英語: John McCrae, 1872年11月30日 - 1918年1月28日)は、カナダ詩人医師作家芸術家である。第一次世界大戦の間は軍人となりベルギーで戦われた第二次イーペル会戦の時には、外科医として任務に当たった。彼は有名な戦争追悼詩『フランダースの野に(英語版)』の作者としてもっともよく知られている。マクレイは終戦の年のはじめに肺炎が原因で没した。彼の著名な詩は、ラメントの一分野であるスレナディー(英語版)である。
経歴ジョン・マクレイの生家

マクレイは、デイヴィッド・マクレイとジャネット・シンプソン・エクフォードの子供として、オンタリオ州ゲルフのマクレイ・ハウス(英語版)で生まれた。彼は、カークーブリシャー(英語版)のバルマギー(英語版)出身のスコットランド人の孫にあたる。彼の父はフェニアン襲撃の時にゲルフ・ホーム・ガードの隊員として任務に当たり、ゲルフの市議やザ・ノースアメリカン・ライフ・アシュアランス・カンパニー(英語版)の重役を務めた[1]。彼の兄であるトーマス・マクレイ(英語版)博士は、ボルチモアジョンズ・ホプキンズ大学医学校(英語版)の教授として、ウイリアム・オスラーと親しい関係になった。彼の妹であるガイルズは、マニトバ州裁判所(英語版)の裁判官のジェームズ・キルガーと結婚してウィニペグに移り住んだ[2]

マクレイは、ゲルフ・カレッジエイト・ヴォケーショナル・インスティテュート(英語版)で学んだ後、16歳で卒業した。彼はゲルフ出身の学生ではじめてのトロント大学の奨学生として、3年の間にわたって学んだ。ところが、彼は重度のぜんそくが原因で1年間の休学を余儀なくされた。この病気は彼の人生の間、再発し続けた[3]

ゲルフのジョン・マクレイ・ハウスにある彼の書簡の中に、砲兵としての訓練のためにオンタリオ州キングストンのテート・ド・ポン兵舎(現在のフォート・フロンテナック)に滞在していた彼が、1893年7月18日にローラ・カインズに向けて書いた手紙が残されている。「私には下僕が付けられています...実際のところ気高い場所です...水際近くの自室の窓からは湾の対岸が見渡せます。今、港には多くの交易船が入港しており、そして川はとても美しく見えます。」

1894年、彼はゲルフのオンタリオ農業大学(英語版)において英語数学のレジデント・マスターの任に当たった[4]トロント大学に戻ったマクレイは教養学士号を取った後、奨学金によって医学を学ぶため大学に残った。

マクレイは医学校で彼の学費を払うために、他の学生の個人指導にも当たった。彼が指導に当たった学生のうちの2人の学生は、オンタリオ州ではじめての女性医師となった[5]ジョン・マクレイ、1912年

1898年にマクレイは大学を卒業した。彼ははじめトロント総合病院(英語版)の常勤医となったが、1899年にメリーランド州ボルチモアジョンズ・ホプキンズ病院に移った[6]

1901年、彼はバーモント大学病理学担当の教授に任じられ、1911年まで講義をおこなった。また、彼はケベック州モントリオールマギル大学でも教育に当たった。1902年、彼はモントリオール総合病院(英語版)の病理学担当の常勤医となり、その後、モントリオールのロイヤル・ヴィクトリア病院(英語版)の病理学担当助手になった。1904年、彼はロイヤル・ヴィクトリア病院の医学助手に任じられた。その年の終わりに彼は渡英して、数か月間学んだ後、英国王立内科医協会(英語版)の会員になった。

1905年、マクレイは複数の病院で実務や教育活動を続けるかたわらで自身の診療所を構えた。同じ年、彼はモントリオール孤児・乳児医院の病理学医になった。1908年、彼はアレクサンドラ感染症医院の医師になった。

1910年、彼は、カナダ総督アルバート・グレイによるハドソン湾へのカヌー旅行に医師として同行した。グレイは「あなたはアラビアンナイトの記録を超える事に成功した。3,000マイルにわたる私たちの旅は同じくらい多くの物語に照らされた物である事を私は信じる」と驚嘆した[7]

マクレイは、J・G・アダミとともに医学書『医学生のための病理学の教科書』(1912年、1914年第2版)を著した。

マクレイは、ユニヴァーシティクラブ・オブ・モントリオール(英語版)の創立会員だった[8][9]

マクレイは、兄の妻の妹にあたるノナ・グウィンに求婚したが、断られた[10]。詩人は、母親に毎週書いていた手紙を除き、恋愛関係について人目にさらす事を避けていた。そして「時折」[11]、彼のセクシャリティが疑問視されてきた[12]。しかし、マクレイの伝記作家であるジョン・F・プレスコットやマクレイ・ハウスの学芸員ベヴ・ディートリヒによればマクレイがゲイであったという証拠は存在しないという[11]
初期の軍歴

フェニアン襲撃にも従軍したマクレイの父であるデイヴィッド・マクレイ中佐は、1870年代から90年代にかけてゲルフ野戦砲兵連隊(英語版)の指揮に当たった。そして、1887年にはジョン・マクレイがラッパ手および砲手として父の連隊に加わった。1886年、14歳の彼はゲルフ・ハイランド士官候補生隊に入隊し、翌年にはオンタリオ州の最優秀士官候補生として表彰を受けた。ボーア戦争と第一次世界大戦中にマクレイに授与されたメダル

1890年代、マクレイは民兵としての任務を続け、1891年にゲルフ連隊の補給軍曹(英語版)、1896年には中尉に昇進した。

第二次ボーア戦争がはじまっていた1899年12月、カナダ陸軍砲兵隊のD砲兵中隊の中尉だったマクレイは、南アフリカにおける任務を志願した。マクレイはD砲兵中隊の第2セクションである右翼部の指揮にあたり、彼の友人であるE.W.B.モリソン(英語版)が第1セクションの指揮をとった。1900年2月、ケープタウンに到着した彼らは、オレンジ自由国トランスヴァール共和国でカーナヴォーン遠征や、同年8月のバーゲンダルの戦い(英語版)などの戦闘に加わった。マクレイは1900年の年末に戻った。この戦争における彼の任務により、彼に3つの留め具(英語版)が付属したクイーンズ南アフリカメダル(英語版)が授与された。

1901年、彼はカナダ陸軍砲兵隊の第16砲兵中隊の大尉、1902年には第1砲兵旅団の少佐に昇進した。1904年、彼は現役の民兵を退役し、予備役少佐になった。
第一次世界大戦マクレイの葬儀ヴィムルー(英語版)墓地にあるマクレイの墓

1914年、第一次世界大戦の開戦後、イギリスがドイツ軍によるベルギー侵攻(英語版)を理由にドイツ帝国に宣戦布告した事によって、イギリス帝国自治領であるカナダも戦争状態に突入した。


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