この項目では、イングランドのギタリストについて説明しています。スコットランドのサッカー選手については「ジョン・マクラフリン (サッカー選手)」をご覧ください。
ジョン・マクラフリン
John McLaughlin
ジョン・マクラフリン(2016年)
基本情報
別名マハヴィシュヌ・ジョン・マクラフリン
生誕 (1942-01-04) 1942年1月4日(82歳)
イングランド
ヨークシャー州ドンカスター[1]
出身地 イングランド
ジャンルフュージョン
ジャズ
インド音楽
フラメンコ
クラシック
職業ギタリスト
作曲家
担当楽器アコースティック・ギター
エレクトリック・ギター
ギターシンセサイザー
共同作業者マイルス・デイヴィス
マハヴィシュヌ・オーケストラ
カルロス・サンタナ
シャクティ
ジョン・マクラフリン(John McLaughlin[2]、1942年1月4日 - )は、イングランド・ヨークシャー・ドンカスター出身のジャズ・ロックギタリスト[1]。
超絶技巧で知られ、ジャズをはじめ、インド音楽やフラメンコ、クラシックなどの要素も広く取り込んでいる。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第49位、2011年の改訂版では第68位。 5人兄弟の末っ子として生まれ、ヴァイオリニストでアマチュア・オーケストラの団員だった母の影響で幼少からクラシック音楽に慣れ親しみ、ピアノを学ぶ。11歳の頃大学生の兄のギターを借り、たちまち夢中になる。兄は6か月でギターに飽きたが、ジョンは毎晩ギターと一緒に寝るほど熱中していたことから、兄はジョンにギターを譲った。 折りしもその頃、イギリスでブルース・ムーブメントが起き、ジョンもビッグ・ビル・ブルーンジーやマディ・ウォータース、ハウリン・ウルフに熱中、また母や兄がジョンの助けとなるよう大量のレコードを持ち込み、そのコレクションからジャンゴ・ラインハルトやフラメンコ、そしてチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピー、マイルス・デイヴィス、オスカー・ピーターソンを聴き、大きな影響を受ける。 当初はフラメンコ音楽を非常に愛し、学校をサボっては兄に本物のフラメンコ・ギタリストのステージに連れて行ってもらう等、フラメンコ・ギタリストを目指していたが、周囲にフラメンコを知る人間がまるでおらず挫折。 ジョン・コルトレーン、レッド・ガーランド、フィリー・ジョー・ジョーンズ、ポール・チェンバース、キャノンボール・アダレイ在籍時のマイルス・デイヴィス・バンドに熱中。またアルバム『カインド・オブ・ブルー』でのビル・エヴァンスのプレイにも大きな衝撃を受ける。そして1965年にジョン・コルトレーンの「至上の愛」に心酔し、トニー・ウィリアムス在籍時のマイルス・バンドを目撃、トニーのプレイにショックを受けるなど、音楽的素養を育む。 デビュー前から非凡な才能で知られ、その頃から少数の生徒にギターを教えていた。ジミー・ペイジやジョン・ポール・ジョーンズはその生徒の一人である。レイ・エリントン・カルテットに15か月間参加したのを皮切りにロンドンでスタジオ・ミュージシャンとしてキャリアを開始、自家用車を購入するなど仕事は順調だったが、「本意でない音楽を演奏すると自分が死ぬ」との思いが強まりセッション・ミュージシャンを辞める。その後「通常のジャズのギター・トーンに飽き飽き」し、グレアム・ボンド・オーガニゼーションへの参加や、ジンジャー・ベイカーやジャック・ブルースとのセッション、エリック・クラプトンやジミー・ペイジの活躍にも影響を受け、より大音量のギター・サウンドを求めるようになる。 1968年に当時の盟友だったデイヴ・ホランドとベルギーでフリー・ジャズをライブ演奏するも、「規律を愛する自分にはフリー・ジャズも本意の音楽ではない」との思いを強める。また当時ホランドはライブハウス「ロニー・スコッツ・ジャズ・クラブ」のハウス・バンドのメンバーだったため、ホランドはソニー・ロリンズ(ホランドはロリンズと別のライブハウスのバンド・メンバーだった)、ジョンはローランド・カークとライブで共演した(カークは自身のトリオよりジョンのバンドを気に入っていたそう)。ビル・エヴァンスの欧州ツアーに帯同していたジャック・ディジョネットもジョン、デイヴとのトリオでセッションをしている(このセッションはディジョネットが録音していたとジョンが証言している)。 そして同年、「ロニー・スコッツ」をマイルス・デイヴィスが訪れ、デイヴ・ホランドを自身のバンドメンバーに雇用。1969年、ジョン・サーマン、トニー・オクスレイらと組んで初リーダー作『エクストラポレーション』をリリース。ジャズ要素の濃い作品で、当時からジャズを主流にした非凡なセンス、テクニック、フィーリングの持ち主だった。またこの頃から本格的に瞑想やヨガを開始する。その後、アメリカに渡ったデイヴと国際電話している時に、デイヴから「君と話したい人間がいる」と告げられトニー・ウィリアムスが電話に出る。トニーはジョンとセッションしたジャック・ディジョネットからジョンの評判を聞きつけ、ジョンに「バンドに入って欲しい」と告げる。 ジョンはアメリカに渡り、トニー・ウィリアムスのライフタイムに参加[1]。当時経済的な理由で同居していたラリー・ヤング(二人共お金が無かったそう)とイスラム教について語り合い、スーフィズムの思想や音楽に大きな影響を受け、ニューヨークのスーフィ・センターに通い、そこで知り合ったポール・モチアン またジョンはこの頃、後に彼の音楽の大きな要素を占めるインド音楽の学習を開始。最初は北インド音楽のフルート奏者に習い、その後、大学で北インド音楽を教えていたインドの弦楽器「ヴィーナ」奏者のラマナサンから2年間学び、ヴィーナにも熱中する。「残念ながら私は二種類の楽器を演奏できる人間ではなかった」ためヴィーナ奏者にはならなかったが、ここでジョンはタブラ奏者のザキール・フセインやヴァイオリニストのL.シャンカール
来歴
幼少期
1950年代
1960年代