ジョン・ポール・ゲティ3世
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ジョン・ポール・ゲティ3世
John Paul Getty III
1976年
生誕 (1956-11-04) 1956年11月4日
アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリス
死没 (2011-02-05) 2011年2月5日(54歳没)
イングランドバッキンガムシャーワームズリー
配偶者ジゼラ・ゲティ(旧姓シュミット 1974年-1993年、離婚)子供1人[1]
子供バルサザール・ゲティ
ジョン・ポール・ゲティ・ジュニア
アビゲイル・ハリス
親戚J・ポール・ゲティ(祖父)
ジョージ・ゲティ(曾祖父)
ゴードン・ゲティ(英語版)(叔父)
マーク・ゲティ(弟)
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ジョン・ポール・ゲティ3世(John Paul Getty III、1956年11月4日[1] - 2011年2月5日[2])は、石油王J・ポール・ゲティの孫。1973年に起きた自身の誘拐事件で一躍世界の注目を浴びた。弟のマーク・ゲティは写真配信大手ゲッティイメージズの共同創業者。息子は俳優のバルサザール・ゲティである。
生い立ち

ジョン・ポール・ゲティ・ジュニアとアビゲイル・ハリス間の4人の子供達の内の長子。

父親がゲティ家石油事業のイタリア支部トップであった関係で、ゲティは幼児期の大半をイタリアローマで過ごした。両親は1964年に離婚、父親は1966年にモデル・女優のタリサ・ポルと再婚した。彼らはヒッピーのライフスタイルを選択し、1960年代は主にイングランドモロッコで暮らした[3]。ゲティはローマのセント・ジョージ・イングリッシュスクール(後のセント・ジョージ・ブリティッシュ・インターナショナルスクール(英語版))の全寮制学校に残った。1971年初め、チャールズ・マンソンのヘルター・スケルターに触発され、一晩かけて学校の廊下をペンキで塗りたくり放校処分となる。同年7月、継母がローマでヘロインの服用過多により死去[4]。父はイングランドへ戻ったが、ゲティはイタリアに残り自由奔放な生活を送り、ナイトクラブに入り浸り、左翼のデモに参加した。芸術家的気質があり、宝石を作り、絵を売り、映画にエキストラとして出演するなどして生計を立てていたという[5]
誘拐

1973年7月10日の午前3時、当時16歳のゲティはローマのファルネーゼ広場で誘拐された[1]。1700万ドルの身代金を要求する脅迫状が届けられた。脅迫状が届いた時、一部の家族は彼が以前から冗談として言っていたように、単に反抗的な若者による倹約家の祖父から金を引き出すための狂言誘拐だと思った。 彼は山中の隠れ家に目隠しをされ、監禁されていた。2通目の脅迫状が届いたが、イタリアの郵便局のストライキにより配達が遅れた[6]。ジョン・ポール・ゲティ・ジュニアは父のジャン・ゲティ卿に金を要求したが拒否された。ゲティ卿は身代金を支払ってしまうと、14人いる他の孫たちにも誘拐の危険が及ぶと主張した。1973年11月、一房の髪と切り落とされた人間の耳が入った封筒が、320万ドルを払わなければ更なる危害を加えるという脅し文句と共に日刊紙に届けられた「これはポールの耳だ。我々が10日以内に身代金を得られなければ、もう片方の耳も送る。 言い換えると彼には殆ど猶予は残されていない。」[7]

この時点でゲティ卿は身代金支払いに同意したが、支払ったのは所得から控除できる最大限度額の220万ドルのみであった。


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