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イギリスの政治家第4代ベスバラ伯爵
ジョン・ポンソンビーJohn Ponsonby
4th Earl of Bessborough
1835年頃、エドウィン・ランドシーア画
生年月日1781年8月31日
没年月日 (1847-05-16) 1847年5月16日(65歳没)
死没地 イギリス・アイルランド・ダブリン・ダブリン城
出身校オックスフォード大学クライスト・チャーチ
所属政党ホイッグ党
称号第4代ベスバラ伯爵、第5代ダンキャノン子爵、第5代ベスバラ男爵、第4代ポンソンビー男爵、初代ダンキャノン男爵、枢密顧問官(PC)
親族第2代メルバーン子爵(義弟)
内務大臣
内閣第一次メルバーン子爵内閣
在任期間1834年7月19日 - 1834年11月15日
アイルランド総督
内閣第一次ラッセル内閣
在任期間1846年7月8日 - 1847年5月22日
庶民院議員
選挙区ナレスボロ選挙区
第4代ベスバラ伯爵ジョン・ウィリアム・ポンソンビー(英: John William Ponsonby, 4th Earl of Bessborough、1781年8月31日 - 1847年5月16日)は、イギリスの政治家、貴族。
19世紀前半のホイッグ党政権下で閣僚職を歴任した。
経歴(英語版)(1793年に爵位を継承)とその妻ヘンリエッタ(英語版)(初代スペンサー伯爵ジョン・スペンサーの娘)の間の長男として生まれる[2][3]。
ハーロー校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学[3]。
1805年にナレスボロ選挙区(英語版)から初当選してホイッグ党の庶民院議員となったが、翌1806年に議席を失った。1810年にハイアム・フェラーズ選挙区(英語版)から再び庶民院議員に選出される。以降1834年の叙爵まで選挙区を変えながら庶民院議員に在職する[2][3]。
1831年にはホイッグ党政権の第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイ内閣で森林長官(英語版)に就任するとともに枢密顧問官に列した[2][3]。
1832年の第一次選挙法改正の際には法案を起草した四人委員会(他にジョン・ラッセル卿、初代ダラム男爵ジョン・ラムトン、サー・ジェームズ・グラハム准男爵)の一人となった。四人委員会の中ではダラム男爵が急進的に、彼とグラハムが保守的にふるまうことが期待されていた[4]。
1834年7月に首相が第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラムに代わると内務大臣に転任するとともに連合王国貴族爵位ダンキャノン男爵に叙されて貴族院議員に列したが、同年11月の内閣総辞職で退任した。短期間の保守党政権をはさんで1835年にメルバーン子爵の第2次内閣(英語版)が発足すると王璽尚書と森林長官として入閣した。