ジョン・ヘンリー・タワーズ
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ジョン・ヘンリー・タワーズ
John Henry Towers
ジョン・H・タワーズ
渾名ジャック[1]
生誕1885年1月30日
ジョージア州 ローム
死没 (1955-04-30) 1955年4月30日(70歳没)
ニューヨーク州 ジャマイカ地区
所属組織 アメリカ海軍
軍歴1908 - 1947
最終階級

海軍大将リスト

指揮:
太平洋艦隊
第5艦隊
第38任務部隊
太平洋航空部隊

部隊:

戦闘:
第一次世界大戦
第二次世界大戦

戦功:

賞罰:
海軍十字章
レジオン・オブ・メリット

除隊後:
パンアメリカン航空副社長

廟:
アーリントン国立墓地

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“ジャック”ジョン・ヘンリー・タワーズ(John Henry Towers 、1885年1月30日-1955年4月30日)はアメリカ海軍の軍人、最終階級は大将

タワーズはアメリカ海軍の海軍航空隊におけるパイオニアの一人であり、かつクラウンプリンス的存在。海のものとも山のものとも分からなかった「航空機」を海軍兵力の主力の一角にするため、「アメリカ海軍航空隊の父」ウィリアム・A・モフェット海軍兵学校(アナポリス)1890年組)とともに奔走した。生粋の海軍パイロット出身者初の大将でもあり、戦艦信奉者が占めていた時期のアメリカ海軍において、航空の重要性を説いたパイロット出身将官の最上位者でもあった。1939年から1942年までの間はアメリカ海軍航空局(英語版)(航空局)局長として航空行政全般に辣腕を振るったが、「父」モフェット譲りの積極的な政治活動や自身の個性の強さなどが周囲から忌避され、第二次世界大戦期には艦隊司令官などのポストに就くことができなかった。第二次世界大戦終結後に退役したあとは、宇宙飛行研究や民間航空産業の助言者的存在となって、航空一筋の生涯を全うした。
生涯
航空との出会い

“ジャック”こと、ジョン・ヘンリー・タワーズは1885年1月30日、ジョージア州ロームに生まれる。祖父はアメリカ連合国陸軍の連隊長で、父もアメリカ連合国陸軍の騎兵隊に所属していた経験があり、いわゆる「軍人一家」の家庭であるが、タワーズが生まれたころには農具販売業を営んでいた[2]。はじめは軍人ではなく技師を志し、ジョージア工科学校に進学するも、寄宿舎の同居人の態度にたまりかねて退学し、海軍兵学校(アナポリス)に改めて進学する[3]。1906年にアナポリスを卒業し、卒業年次から「アナポリス1906年組」と呼称されたこの世代の同期には、フランク・J・フレッチャージョン・S・マケイン・シニアオーブリー・フィッチロバート・L・ゴームレーらがいる[4][注釈 1]。1908年に少尉に任官したタワーズは戦艦ケンタッキー」乗り組みを経て、1911年に戦艦「ミシガン」乗り組みとなり、弾着観測を担当する[3]。アメリカ戦艦の一種の特徴だった籠マストの頂部から観測を行うのがタワーズの役目だったが、高い場所とはいえ観測できる範囲には限度があった[3]。タワーズは、弾着観測に関する疑問の答えを、当時は創成期の段階だった「航空」に求めた。

1903年12月17日のライト兄弟の「ライトフライヤー号」による初の動力飛行以降、アメリカ軍で先に航空機に手を出したのは陸軍だった。海軍と航空機に縁ができるのは、遅く見積もっても1910年11月14日に民間パイロットのユージン・バートン・イーリー軽巡洋艦バーミングハム」からの発艦実験が嚆矢で、タワーズが「ミシガン」に配属されたのと同じ1911年の1月18日には、同じくイーリーが装甲巡洋艦ペンシルベニア」からの発艦および「ペンシルベニア」への着艦に成功していた。1月27日には、海軍からサンディエゴのノースアイランドに派遣され、ヘリング・カーチス社社長のグレン・カーチスの指導を受けていたセオドア・G・エリソン中尉(アナポリス1905年組)が海軍軍人として初めて飛行に成功し、海軍パイロット第1号となっていた。こうした人的な動きに呼応し、海軍は3機の航空機を購入して航空隊の育成を本格的に開始する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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