ジョン・ブラウン_(奴隷制度廃止運動家)
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ジョン・ブラウン
John Brown
1859年撮影
生誕1800年5月9日
アメリカ合衆国 コネチカット州トリントン
死没 (1859-12-02) 1859年12月2日(59歳没)
アメリカ合衆国 バージニア州チャールズタウン
死因絞首刑
記念碑ジョン・ブラウン記念館
別名オサワトミー・ブラウン
(Osawatomie Brown)
オールド・ブラウン
(Old Brown)
市民権アメリカ
職業企業家革命家政治家
著名な実績ハーパーズ・フェリーの蜂起
影響を受けたものイライジャ・ラブジョイ
影響を与えたもの南北戦争
宗教キリスト教会衆派(後に離脱))
罪名奴隷解放を目的とする武装蜂起
署名

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ジョン・ブラウン(John Brown、1800年5月9日 - 1859年12月2日)は、米国奴隷制度廃止運動家。
概要

運動の手段としてアメリカでは初めて反乱を唱道し実行した人物として知られる。ブラウンは「19世紀のアメリカ人で最も議論の的になる人物」と言われてきた[1]1859年にブラウンが奴隷にされていたアフリカ系アメリカ人の解放のためにバージニア州ハーパーズ・フェリーで始めた行動は、その呼びかけに応えた奴隷が一人もいなかったとしても、国中を震撼させた。ブラウンはバージニア州に対する反逆罪で裁判に掛けられ、絞首刑に処せられたが、公判中のブラウンの挙動は多くのアメリカ人の目に英雄のように映った。南部の者達は、ブラウンの反乱が奴隷制度廃止運動という氷山の一角に過ぎず、共和党の願望を代表していると主張したが、共和党員からは強く否定された。1859年のハーパーズ・フェリー襲撃がその年遅くのアメリカ南北の緊張関係を強め、アメリカ連合国の離脱と南北戦争に繋がった。

ブラウンはブリーディング(血を流す)・カンザス危機の間に小さな一群の志願者を率いた時に注目を集めた。奴隷制を擁護する党派に対して平和的な抵抗を主唱していた北部の者達とは異なり、ブラウンは南部の攻撃性に対して暴力的な行動を要求した。既成組織の奴隷制度廃止運動によって奨励されていた平和主義には満足せず、「こいつらは口先だけだ。我々に必要なことは行動だ?行動だ!」と言ったと言われている[2]1856年5月、カンザス州の「自由の土地」と呼ばれたローレンス市への攻撃に反応して、ブラウンはその対決姿勢を重んじる信念により、ポタワトミーの虐殺として知られる事件で、南部の奴隷制度擁護派5人を殺すことになった。ブラウンの最も有名な行動は1859年のバージニア州(現在はウエストバージニア州)ハーパーズ・フェリーにあった連邦政府の武器庫襲撃であった。この襲撃でブラウンは武器庫を占拠し、解放黒人1人を含む7名を殺害し、10名以上に負傷させた。ブラウンは武器庫の武器で奴隷達を武装させるつもりだったが、結局は失敗だった。36時間のうちにブラウンの部下達は逃亡するか、土地の農夫、民兵、およびロバート・E・リーに指揮された海兵隊に殺されるか捕まえられた。それに続く連邦軍によるブラウンの捕縛、バージニア州に対する反逆罪での公判、絞首刑による処刑は、16ヶ月後の南北戦争開戦の重要な原因の一つとなった。

1859年にブラウンが奴隷の反乱に失敗して死刑が執行されたとき、北部の諸州では、教会の鐘が鳴らされ、弔砲が撃たれ、大規模な慰霊の式が行われた。エマーソンソローのような有名な作家が多くの北部人の前でブラウンのことを誉め称えた[3]ガリソンは平和主義者であったが、ブラウンは暴力に訴えた。歴史家達はブラウンが開戦のために大きな役割を演じたことでは一致している[4]。ブルース・オールズのような伝記作家はブラウンを狂人と見ているが、ステファン・B・オーツなどは「その時代の最も洞察力のある人間の一人」と見なしている。デイビッド・S・レイノルズは、「奴隷制を殺し、南北戦争を始めさせ、市民権の種をまいた」と喝采し、リチャード・オーウェン・ボイアーはブラウンが「何百万というアメリカ人を自由にするために命を捧げたアメリカ人」と強調した。ケン・チャウダーは「ある時点で偉人」だが、「アメリカのテロリズムの父」だとも言った[5]

ブラウンの渾名は「オサワトミー・ブラウン」、「オールドマン・ブラウン」、「キャプテン・ブラウン」およびカンザスのオールド・ブラウンであった。ブラウンの仮名はネルソン・ホーキンス、シューベル・モーガン、およびアイザック・スミスであった。後に「ジョン・ブラウンの遺骸(John Brown's Body)」という歌が、南北戦争中の北軍の行進曲になった。
生い立ちと初期の経歴

ブラウンは1800年5月9日コネチカット州トリントンで生まれた。父親オーウェン・ブラウン (1771-1856)と母親ルス・ミルズ (1772-1808)の8人の子供のうち4番目であった。祖父はジョン・ブラウン大尉 (1728-1776)であった。祖父のジョン・ブラウンがアメリカ独立戦争中のロイヤリスト、ジョン・ブラウンと同一人物と推測されてきた。ロイヤリストのジョン・ブラウンは、牛を盗んだとされている悪名高いクローディアス・スミスと共に、その牛でイギリス軍の食糧危機を救った後に監獄でも共に過ごしたとされている。しかしこのことは、ブラウン家の血筋と母方のハンフリー家の記録からしてあり得ない。ブラウン自身は1857年に書いた自叙伝で、父方の祖父も妻の祖父も大陸軍の兵士だったと書いており、祖父のジョン・ブラウンは1776年の春にコネチカット植民地の第18民兵隊第8中隊の大尉に選ばれたとしている。祖父のジョン・ブラウンは1776年5月23日に、トランブル知事によって任命された。ジョン・ブラウン大尉の中隊はコネチカットを出発して、ニューヨークの大陸軍に合流したが、9月3日に赤痢で死んだ。その息子でブラウンの父、オーウェン・ブラウンはなめし革工場を営んでおり、厳格なカルヴァン主義者でもあった。奴隷制を憎み、息子のブラウンにその仕事のやり方を教えた。

1805年、ブラウン家はオハイオ州ハドソンに移住し、なめし革工場を始めた。父のオーウェンはオベリン大学(初期の名前はオベリン・カレッジ)を開設当初から支援した。ただし、オーウェンはその学校の「完璧主義者」的傾向、特にチャールズ・フィニーやアサ・マハンの説教や教導で有名になったものには批判的であった。ブラウン家がこの時期長老派教会など新カルヴァン主義の反論に影響を受けていたとする最近の学説は正しくない。ブラウンは1840年代会衆派教会を脱会したし、他の教会に公式に加わることもなかったが、ブラウンと父のオーウェンは生涯、かなり伝統的また保守的な福音カルヴァン主義者であった。ブラウンの保守的な宗教観はブラウン家に詳しかったクラレンス・ギー牧師の報告書に詳しく記録され、現在はハドソン図書館および歴史協会に保存されている。

ブラウンは子供の時、後に将軍となり大統領にもなったユリシーズ・グラントの父親ジェス・R・グラントと短期間共に生活した[6]

ブラウンは16歳の時に家を離れ、マサチューセッツ州プレーンフィールドに行って予備校に入った。その直ぐ後で、コネチカット州リッチフィールドの専門学校に転校した。ブラウンは会衆派教会の牧師になりたいと思ったが、金が底を突いたうえに目に炎症を来たし、専門学校を諦めてオハイオに戻ることになった。ハドソンで暫く父親のなめし皮工場を手伝った後、義兄弟と共に町の外で彼自身のなめし皮工場を開いて成功した。

1820年、ブラウンはダイアンズ・ラスクと結婚した。13ヶ月後に最初の子供ジョン・ジュニアが生まれた。1825年、ブラウンは家族を連れてペンシルベニア州リッチモンドに移住し、そこで200エーカー (800,000 m2)の土地を購入した。その8分の1の土地を切り開き、小屋、納屋およびなめし皮工場を建てた。工場は1年で従業員15名を雇うまでに成長した。また、牛の飼育や測量でも金を稼いだ。郵便局や学校を建てる時には支援した。この期間、ブラウンはオハイオ州東部出身の親類セス・トンプソンと共に牛や皮革製品を州を越えた範囲で売り捌く事業を展開した。

1831年、息子の一人が死んだ。ブラウンも病気になって事業がうまく行かなくなり、かなりの借金を背負い込むことになった。


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