ジョン・フィリップ・スーザ
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ジョン・フィリップ・スーザ
John Philip Sousa

渾名マーチ王
生誕1854年11月6日
アメリカ合衆国ワシントンD.C.
死没 (1932-03-06) 1932年3月6日(77歳没)
アメリカ合衆国ペンシルベニア州 リーディング
所属組織 アメリカ海軍
アメリカ海兵隊
軍歴1868 - 1875
1880 - 1892(海兵隊)
1917 - 1918(海軍)
最終階級海兵隊曹長
海軍少佐
指揮海軍五大湖基地軍楽隊
海兵隊支援司令部軍楽隊
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ジョン・フィリップ・スーザ(英語: John Philip Sousa [?su?z?, ?su?s?][1]1854年11月6日 - 1932年3月6日)は、アメリカ作曲家指揮者

雷神』『ワシントン・ポスト』、『星条旗よ永遠なれ』など100曲を超えるマーチを作曲し、「マーチ王」と呼ばれる。ほかオペレッタ組曲などを作曲した。

マーチングバンドなどでよく用いられるマーチング用チューバスーザフォーンを考案するなど、19世紀のバンド音楽発展に貢献した。
生涯

ワシントンD.C.に生まれる。父はポルトガル人の両親の元にスペインに生まれ、大統領直属ワシントン海兵隊楽団のトロンボーン奏者だった。母はバイエルンで生まれた。周囲に音楽があふれている環境の中で、スーザは自然に音楽と親しむようになる。7歳のとき音楽の勉強を始め、楽器演奏のほかに声楽にも熱中した。熱中するあまり、勝手に楽団にもぐりこんで演奏に加わったりした。1868年、13歳のときにすんでのところでサーカスのバンドに入団するところだったが、父親が介入し、父の紹介でワシントン海兵隊楽団に見習いとして入団した。1875年、20歳で退団してからは、ワシントンのオーケストラのヴァイオリン奏者および指揮者として各地を巡業した[2]。その最中にはアーサー・サリヴァンなどと親しくなったりもした。

1880年に古巣のワシントン海兵隊楽団からバンドリーダーに指名され楽団に復帰した[2]。12年間にわたってスーザは海兵隊楽団の第17代リーダーをつとめ、その間1886年の『剣闘士』ではじめてスーザは作曲家として成功した[2]。『ワシントン・ポスト』(1889)や『雷神』(1889)など、スーザのもっとも有名な作品の多くはこの時期に書かれた。中でも『ワシントン・ポスト』は国際的な名声を得た。ヨハン・シュトラウス2世が「ワルツ王」と呼ばれたのをもじってスーザが「マーチ王」と呼ばれるようになったのもこの時である[2]

1891年および1892年にスーザはアメリカ国内各地をまわる海兵隊楽団の演奏旅行を行い、その後の伝統となった[2]

1892年、海兵隊楽団の管理者であったデヴィッド・ブレイクリーの誘いで楽団を辞任し、スーザ吹奏楽団を結成[2]。スーザは指揮者・コンサートの選曲者・作曲者・編曲者・楽団の管理者として多忙をきわめた[3]9月26日ニュージャージー州プレインフィールドで第1回の公演を行い、そのまま全米各地への演奏旅行に出発した。ブレイクリーの根回しが少々雑だったのか、公演は必ずしもすべて成功とはいかなかったとされる。1896年、スーザがヨーロッパで休暇を取っている時にブレイクリーが急死し、その報を聞いて帰国する船の中で『星条旗よ永遠なれ』の旋律が浮かんだという[4][5]

スーザ吹奏楽団は毎年全米各地をツアーしたほかに、1910年から翌年にかけてワールド・ツアーを行い、そのほかにヨーロッパ・ツアーを4回実行した[6]。ワールド・ツアーではハワイや南半球のオーストラリア南アフリカなどへの演奏旅行に出かけたが、1914年第一次世界大戦の勃発に伴い、吹奏楽団を解散。スーザ自身も海軍大尉に任官する。終戦後、少佐で退役後吹奏楽団を再結成し、レコーディングや演奏旅行、そして1922年から始まったラジオへの出演など、大戦前以上に精力的に活動した。1932年3月6日ペンシルベニア州レディングで地元のリングゴールド・バンドのリハーサルを行った後に急死した[6]。スーザ吹奏楽団も解散となった。

スーザは音楽以外にも多彩な才能を見せており、3篇の小説と自伝(『Marching Along』1928)を著している[7]クレー射撃にも熱心で、高い技術を有していた[8]。スーザ吹奏楽団は野球チームを持っており、スーザ本人がピッチャーをつとめた。野球を題材にした行進曲『国技』(The National Game)も作曲している[3]
栄誉

スーザは没後に数多くの栄誉が与えられた。

1939年にアナコスティア川に新しくかけられたワシントンD.C.のペンシルベニア通り橋がスーザの追憶に捧げられた (John Philip Sousa Bridge
[2]


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