ジョン・ピム
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ジョン・ピム(1640年)

ジョン・ピム(John Pym, 1584年 - 1643年12月8日)は、17世紀イングランドの政治家。清教徒革命イングランド内戦)の初期において主導的な役割を果たした1人である。
目次

1 生涯

1.1 生い立ち

1.2 国王専制を批判

1.3 内戦下の議会を主導


2 脚注

3 参考文献

4 関連項目

生涯
生い立ち

サマセットシャージェントリアレクサンダー・ピムとフェリッペ夫妻の息子として生まれ、1年もたたずに父を亡くし母がアンソニー・ラウスと再婚、敬虔なピューリタンであった継父に育てられた。1599年オックスフォード大学に入り、3年後の1602年ミドル・テンプル法曹院に進んだ[1]。この学生時代に火薬陰謀事件が発生し、ピムに強い反カトリック感情を生み出す一因となった[2]

ベッドフォード伯爵フランシス・ラッセルとは継父を通じて家族ぐるみの交際があり、その支援を受けて1605年に各王領の収入役を任され富裕になり、財政知識だけでなく州委員会に属して地方政治を学び取った。1614年庶民院議員に選出され、1621年にも再選されている。また収入役を勤めていた頃に義姉の娘と結婚し7人の子を儲けたが、1620年に妻、母、義兄を相次いで失っている[1][2][3]

1621年の議会でピムはカトリックへの弾圧を支持して、全イングランド国民に忠誠の誓いを求める一方、ジェームズ1世に対しては、忠誠と引換にイングランド人の諸権利を国王が保証すべきことを強く求め、エドワード・コークらと共に議会の大抗議を作成した。激怒したジェームズ1世により議会は解散、ピムもロンドンの自宅で軟禁状態に置かれるが、有能だったため収入役を罷免されずに済んでいる。程無く政治活動を再開、1624年1625年の議会にも出席して反カトリック・反アルミニウス主義イングランド国教会守護の主張を止めなかった[4]
国王専制を批判

チャールズ1世の代の1626年に起きたバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズの弾劾ではその失政を追及して、反国王派から注目を受けるようになる。ジョン・エリオット(英語版)らと共に1628年権利の請願作成と提出に中心的な役割を果たしたが、翌1629年にチャールズ1世が議会を解散して無議会状態となると、プロヴィデンス島会社の収入役に就任した。これは表面上、新大陸における植民地建設のための会社であったが、裏では反国王派を政治的弾圧から保護する目的を有していた。株主に庶民院議員ジョン・ハムデン貴族院議員ウォリック伯ロバート・リッチなどが名を連ね、スペイン軍がカリブ海の植民地に上陸して会社が倒産した後も連携を保った。また、政府に投獄されていたエリオットが1632年に獄死、コークも1634年に亡くなると、彼らに代わりハムデンと共に庶民院指導者として政府を批判していった[1][5][6]

1640年4月の短期議会によって議会が再開された時、主教戦争の軍費捻出のため議会に課税同意を求めるチャールズ1世に対して、無議会政治への非難と人民の政治的権利の保障要求と国王の政治運営に対する追及を行った[1]。続いて、11月からの長期議会においてピムは王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスカンタベリー大主教ウィリアム・ロード、政権指導者のストラフォード伯爵トマス・ウェントワースらの糾弾を行った(後にストラフォード伯は処刑)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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