ジョン・バチェラー
[Wikipedia|▼Menu]

ジョン・バチェラー1928年頃のバチェラー
人物情報
生誕 (1854-03-20) 1854年3月20日
イギリス サセックス州アクフィールド
死没1944年4月2日(1944-04-02)(90歳)
出身校セント・ポール学院
学問
研究分野東洋学アイヌ研究)
テンプレートを表示

ジョン・バチェラー(John Batchelor、1854年3月20日 - 1944年4月2日)は、イギリス人聖公会宣教師。半世紀以上にわたって、アイヌへの伝道アイヌ文化およびアイヌ語の研究、困窮するアイヌの救済に尽力し、「アイヌの父」と呼ばれた。バチラーとも表記される。
生涯
初期

1854年サセックス州アクフィールドで、11人兄弟の第6子として生まれる[1]。初めは庭師として働いていたが、インド宣教をしていた宣教師の説教を通して、東洋伝道の志を持つ。イギリス教会宣教会(CMS)に入会し、1876年香港のセント・ポール学院に入学したが、香港の気候風土が合わず体調を崩し、マラリアを発症する。
函館時代

1877年明治10年)、静養のため香港を離れ、横浜東京を経由して、気候が英国に近い函館に渡来する。函館での伝道中にアイヌ民族の窮状を知り、また先に函館で活動していた宣教師デニングの影響もあり、アイヌ伝道を志す[2][3]1879年(明治12年)、CMSの信徒伝道者に任命され、函館を拠点にアイヌへの伝道活動を始める。同年、ウォルター・デニングのすすめで日高地方平取を訪れ、長老ペンリウクの家に4ヶ月滞在してアイヌ語を学んだ。1881年(明治14年)にも平取を訪れペンリウクからアイヌ語を学んでいる。

1882年(明治15年)にイギリスに一時帰国し、翌年再び函館に帰任した。

1884年(明治17年)、東京の英国公使館にてウォルター・アンデレスの姉ルイザ・アンザレスと結婚。しかし、この頃バチェラーは和人との対立に悩まされる。「滞在許可条件を守っていない」として告訴され、1885年(明治18年)、新しいパスポートの申請を却下された[4]。裁判の結果、告訴内容は誤解によるものと認められ、パスポートも発給されたが、裁判後に役人から「バチラー師はアイヌ語を存続させようと努力しているが、われわれ日本当局は死滅することを望んでいる」と釘を刺されている[5]。また、近代化による環境の変化で酒に溺れるアイヌが多かったため、バチェラーは知り合ったアイヌに熱心に断酒を勧めていたが、アイヌに酒を売ることで利益を得ていた和人商人の反感を買い、平取からの追放運動が起こった[5]

平取を追われたバチェラーは幌別村(現在の登別市)を訪れ、アイヌに対するキリスト教教育やアイヌ語教育を始め、1888年(明治21年)に金成喜蔵金成太郎の父)の私塾相愛学校の設立に関わる。金成太郎はアイヌ初の受洗者(バチェラーが洗礼を授けたともされるが、当時バチェラーは司祭の資格を持っていない)かつ伝道者であり、バチェラーにとってアイヌ語の先生でもあった[6]1892年(明治25年)、アイヌが無料で治療を受けられるようにアイヌ施療病室を開設する。
札幌時代ジョン・バチェラー(中央)とアイヌの人々

1892年(明治25年)1月1日、バチェラーは伊藤一隆を中心とする北海道禁酒会の招聘に応えて函館を離れ、翌日札幌に移った[7][注釈 1]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:59 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef