ジョン・バジロン
[Wikipedia|▼Menu]

ジョン・バジロン
John Basilone
1916年11月4日 - (1945-02-19) 1945年2月19日(28歳没)
名誉勲章を着用したバジロン
渾名マニラ・ジョン
生誕 アメリカ合衆国
ニューヨーク州バッファロー
死没 大日本帝国
東京都硫黄島村硫黄島戦死
所属組織 United States Marine Corps
 アメリカ陸軍
軍歴1934 - 1937 (陸軍
1940 - 1945 (海兵隊
最終階級 一等軍曹
戦闘World War II
*Battle of Guadalcanal
*Battle of Iwo Jima
勲章Medal of Honor
Navy Cross
Purple Heart
墓所アーリントン国立墓地
テンプレートを表示

ジョン・バジロン(英語: John Basilone、1916年11月4日 - 1945年2月19日)は、アメリカ合衆国海兵隊員

アメリカ陸軍に入隊しフィリピンに赴任した後1940年に海兵隊に入隊し、訓練の後キューバグアンタナモ湾を経てソロモン諸島ガダルカナルに配属された。1942年10月のガダルカナルの戦いは15名いたバジロンの部隊でも生き残ったのはバジロンの他2名だけという激戦であったが、バジロンは3日間にわたる戦闘で約3,000名の日本兵を撃退する功績を挙げ、名誉勲章を受勲した。1945年2月19日硫黄島の戦いで戦死し、死後海軍十字章パープルハート章を贈られた。

第二次大戦期の海兵隊員で名誉勲章、海軍十字章とパープルハート章の三つすべてを受章したのはバジロンだけであり、死後その功績を称えて道路や軍の施設、駆逐艦の名前などにバジロンの名がつけられた。
生い立ち

1916年11月4日ニューヨーク州バッファローに10人兄弟の6番目の子として生まれた。父サルバトーレ・バジロンは1903年にナポリからアメリカに移民しニュージャージー州ラリタンに住んでいた。母ドーラ・ベンチヴェンガは1889年生まれでニュージャージー州マンビル育ちであるが、両親カルロとカトリーナはナポリからの移民であった。サルバトーレとドーラの2人は教会で知り合い、出会ってから3年後に結婚した。バジロンはニュージャージー州ラリタン・タウン(現在のラリタン区)で育ち、セント・バーナード教区学校に通っていたが、15歳で中等部を卒業した後高校には行かなかった[1]
軍歴

軍に入る前は地元のカントリークラブでゴルフキャディをして働いていた。1934年アメリカ陸軍に入隊し[2]、3年間の兵役服務期間をフィリピンで過ごしたが、そこではボクシングのチャンピオンであったという[3]。帰国してからはメリーランド州ライスターズタウンでトラック運転手の職を得たが、数カ月働いた後マニラに戻りたくなり、陸軍にいるよりは早くマニラに行けるだろうと海兵隊に入隊することにした[4]1940年7月、メリーランド州ボルチモアで海兵隊に入隊し、クワンティコ海兵隊基地およびニューリバー海兵隊航空基地での訓練の後、パリスアイランド海兵隊新兵訓練基地で新兵訓練を受けた。その後キューバのグアンタナモ湾を経て、海兵隊第1師団第7連隊第1大隊D中隊(ドッグ・カンパニー)に配属されソロモン諸島ガダルカナルへ赴任した[4]。  
ガダルカナルジョン・バジロン(1942年頃)

ガダルカナルでは、バジロンの前任地がフィリピンでありバジロン自身もマニラでのことばかり話していたため、仲間から「マニラ・ジョン」と呼ばれていた[4]1942年10月24日のヘンダーソン飛行場の戦いの際、バジロンの部隊はおよそ3,000名の日本軍仙台師団の猛攻を受けた。米軍重機関銃座に対し日本軍は機関銃、手榴弾、迫撃砲などで正面攻撃を仕掛ける激戦で、バジロンは2箇所の機関銃座を指揮し都合3日間戦い抜いたが15名いた部隊のうち最後まで生き延びたのはバジロンの他2名だけであった[5]。戦闘中バジロンは予備の機関銃も銃座に付けて迫りくる日本兵に対して火線を絶やさないようにし、さらにもう一挺の機関銃の不具合も直して別な銃手を配置につけるなどして交代の部隊が来るまで防衛線を死守した。戦闘が激しさを増し弾薬が底をつき始めた後、バジロンは日本兵に対し45口径の拳銃マチェテ(山刀)だけで戦った。戦闘が終わるころには、日本軍は事実上壊滅していた。バジロンはこの戦功によってアメリカ軍における最高の栄誉である名誉勲章を授与された[6]

後にノースカロライナ州ファイエットビル出身のナッシュ・フィリップス上等兵は、ガダルカナルの戦いでのバジロンをこう述懐した。「バジロンは3日間の間、眠らず、休まず、食事もとらずに機関銃を撃ちつづけた。銃座について機関銃を撃つだけでなく拳銃も使って日本兵を散々な目にあわせていた。」[4]
戦時国債ツアーと結婚

名誉勲章を授与されたバジロンは本国に帰国し、戦争英雄として戦時国債購入キャンペーンツアーに駆り出された。バジロンの帰国は大々的に宣伝され、故郷の町では栄誉を称えるパレードも行われた。この帰国パレードは1943年9月19日の日曜日に行われ、何千人もの一般市民に加え有名人や全国紙記者もパレードに参加し、全国ニュースとしてライフ誌やFOX ・ムービートーン・ニュースで報道された[7]。パレードの後は戦時国債を売る為全国をまわり、有名人としてのステータスも得た。だがバジロンはこうして人々に称賛されることをありがたく思いつつも、何か場違いな気持ちもあり、戦場に戻って戦うことを軍に希望した。海兵隊はその要望を退け「君は国内戦線でこれからもっと必要とされる存在だ」と説き、金一封を出すことも提案したがバジロンはこれを受けつけず、指導教官の職を提案されたが同じ様に断った。バジロンは再度戦場に戻ることを申し出、ようやく許可が下りた。1943年12月27日、訓練の為カリフォルニア州ペンドルトン基地(キャンプ・ペンドルトン)に赴任したが、このペンドルトン基地駐留中にバジロンは海兵隊婦人予備隊軍曹で将来の妻となるリーナと出会っている。二人は1944年7月10日カリフォルニア州オーシャンサイドにあるセント・メアリー・スター・オブ・ザ・シー教会で結婚式を挙げ、カールスバッドホテルで披露宴を行った。ハネムーンの行先はオレゴン州ポートランドにあるリーナの両親のタマネギ農場であった[8]。この後バジロンは太平洋戦線に戻ることを軍に要求し、承認された[8]
硫黄島アーリントン国立墓地にあるバジロンの墓碑。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:43 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef