ジョン・バカン
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初代トゥイーズミュア男爵
ジョン・バカンJohn Buchan
1st Baron Tweedsmuir
カナダ総督在職中
生年月日 (1875-08-26) 1875年8月26日
出生地 イギリス
スコットランドパース
没年月日 (1940-02-11) 1940年2月11日(64歳没)
死没地 カナダケベック州モントリオール
出身校オックスフォード大学ブレーズノーズ・カレッジ
前職作家
称号トゥイーズミュア男爵
配偶者スーザン・シャーロット・グロヴナー
サイン
第15代カナダ総督
内閣マッケンジー・キング内閣
在任期間1935年11月2日 - 1940年2月11日
元首ジョージ5世
エドワード8世
ジョージ6世
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初代トゥイーズミュア男爵ジョン・バカン(英語: John Buchan, 1st Baron Tweedsmuir [?b?k?n]スコットランド語:[?b?x?n]GCMG, GCVO, CH, PC, 1875年8月26日 ? 1940年2月11日)は、スコットランドの小説家、歴史家、政治家である。第15代カナダ総督を務めた。大学在学中から文筆活動を始め、同時に南アフリカにある諸植民地の行政官の個人秘書として政治家として活動を始めた。彼は第一次世界大戦における英国の戦果を宣伝する文章を書くことになる。退役したのち、スコットランド大学合同選挙区選出の下院議員となったが、活動の多くは『三十九階段』 (The Thirty-Nine Steps) その他の冒険小説に代表される執筆活動に充てられた。1935年にベスバラ伯爵に代わるカナダ総督に、カナダ首相リチャード・ベネットの推薦の下、カナダ国王ジョージ5世によって任命され、1940年に死去するまで務めた。バカンはカナダ文化の発展と教育に熱心であり、死後は国葬とされた。
生涯
出生と教育

スコットランド自由教会の牧師であったジョン・バカンとヘレン・ジェーン・バカンの長男としてパースに生を受けた[1]ファイフ州のカークカルディに育ち、夏季には祖父母の住むボーダーズ地方のブラウトンで過ごしていた。ここでバカンはウォーキングと田園景観に魅せられ、後年小説でしばしば取り上げている。ハッチソンズ・グラマースクールを卒業すると、17歳でグラスゴー大学の奨学金を獲得した。グラスゴーでは古典を学び、詩を書いて、やがて本を出版するまでになった。ヒューム奨学金を得て1895年にオックスフォード大学ブレーズノーズ・カレッジ[2]の古典学コース(Literae Humaniores)に転じ、ここでヒレア・ベロック、レイモンド・アスキス、オーブリー・ハーバートらと親交を深めた。バカンは在学中の1897年にスタンホープ・エッセイ賞を、1898年にニューディゲイト賞を受賞しており、またオックスフォード・ユニオンの会長に選ばれ、6つの作品が刊行された[3]。オックスフォード卒業に前後して、彼は初めて肖像画を描いてもらっており、若き日のショルトー・ジョンストン・ダグラスによって1900年に完成された[4]
政治家・小説家として

オックスフォード大学を卒業したバカンは政治外交の道に足を踏み入れ、当時南アフリカ高等弁務官としてケープ植民地トランスヴァールオレンジ自由国の植民地行政にあたっていたアルフレッド・ミルナーの個人秘書となった。このことによって彼は「ミルナー幼稚園」(Milner's Kindergarten)と呼ばれるものの一員となったのである。同時に彼は後にとりわけ彼の著作の中で重要となる国について知識を得ることになった。執筆活動はバカンが1903年にロンドンへ戻った際に再開され、それはまた出版社のトマス・ネルソン&サンに共同経営者として迎えられ、スペクテイター誌の編集者となったときでもあった[5]。ロンドンに戻ったバカンは政治の世界に乗り出し、ボーダーズ地方の選挙区から統一党の候補者として立候補したが落選した。彼は自由貿易、婦人参政権、国民保険制度、そして貴族院の権限を制限することに賛成していたが、自由党の福祉改革、あるいはデイヴィッド・ロイド・ジョージのような扇動的な自由党員によってもたらされる「階級間憎悪」と考えられるものには反対していた。1910年に南アフリカを舞台にした一連の冒険小説の始まりとなったPrester Johnを発表した。翌年には十二指腸潰瘍を患ったが、このことは後年の作品に登場するある人物に関する着想を与えることになった。バカンはさらに法律を学んでおり、1903年に法廷弁護士の資格を取得している[6]が、実際に法律家として活動することはなかった[7]。1907年7月15日にノーマン・グロヴナー(Norman Grosvenor)の娘でウェストミンスター公爵の従姉妹であるスーザン・シャーロット・グロヴナー(Susan Charlotte Grosvenor)と結婚した。夫妻にはアリス(Alice)、ジョン(John)、ウィリアム(William)、アラステア(Alastair)の4人の子供が生まれ、うち2人は生涯の大部分をカナダで過ごしている[6]

第一次世界大戦が勃発すると、バカンは英国戦争宣伝局のために執筆し、タイムズ紙のフランス特派員として活動した。一方で小説の執筆も続けており、1915年に彼の最も有名な作品であり、大戦直前を舞台にしたスパイ小説三十九階段』(The Thirty-Nine Steps)を刊行している。『三十九階段』にはバカン作品の主要人物となるリチャード・ハネイ(Richard Hannay)が登場するが、その造型は南アフリカ以来の友人であるエドマンド・アイアンサイドをもとにしたものだった。翌年には続編である『緑のマント』(Greenmantle)が発表される。バカンはやがて陸軍に入隊し情報部の少尉に任命されて、ダグラス・ヘイグ(Douglas Haig)元帥のスピーチや声明文を起草した。活躍が認められて、1917年にバカンは初代ビーヴァブルック男爵マックス・エイトケンのもと、情報部長に任用され(この仕事についてバカン自身は「経験した中で最も困難な任務」[8]と述べている)、同時にチャールズ・マスターマン(Charles Masterman)を補佐して1915年2月に始まった月刊の戦史(後に24巻立てのNelson's History of the Warとして発行された)を刊行した。


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