John Herschel Glenn Jr
ジョン・ハーシェル・グレン・ジュニア
アメリカ合衆国上院議員
オハイオ州選出
任期
1974年12月24日 - 1999年1月6日
前任者ハワード・メッツェンバウム
ジョン・ハーシェル・グレン
John Herschel Glenn, Jr.
NASA所属宇宙飛行士
国籍 アメリカ合衆国
生誕 (1921-07-18) 1921年7月18日
アメリカ合衆国 オハイオ州ケンブリッジ
死没 (2016-12-08) 2016年12月8日(95歳没)
アメリカ合衆国 オハイオ州コロンバス
他の職業テストパイロット
階級アメリカ海兵隊大佐
宇宙滞在期間9日2時間39分
選抜試験1959年NASA選抜試験
ミッションマーキュリー・アトラス6号
STS-95
記章
ジョン・ハーシェル・グレン・ジュニア(John Herschel Glenn Jr., 1921年7月18日 - 2016年12月8日[1])は、アメリカの元海兵隊戦闘機パイロット、宇宙飛行士、政治家。1962年にアメリカ人として初の軌道宇宙飛行を行った。 オハイオ州ケンブリッジ
経歴
海軍
F4Uコルセア戦闘機を操縦し、主にマーシャル諸島において、日本軍に対する対地攻撃を行い、59回の戦闘出撃をこなした。1945年には、メリーランド州のパタクセント・リバー海軍航空基地等で勤務し、第二次世界大戦の終戦時には大尉であった。
戦後しばらくの間、グアムを基地として中国共産党軍が支配する地域に対する偵察飛行を行っていたが、1948年にはテキサス州コーパスクリスティ海軍航空基地において飛行教官となった。そこで、水陸両用戦やスタッフ管理などを担当していた。朝鮮戦争が勃発すると、海兵隊の一員として朝鮮半島でF9Fパンサーに搭乗し、戦闘任務に付いたが、軍種間の人材交流により、空軍の機体に搭乗する機会があった。彼はF-86セイバー戦闘機を操縦し、3機の敵戦闘機(MiG-15)を撃墜している。これらの成果により、幾つかのメダルを授与されている。 朝鮮戦争の後、1954年7月にパタクセント・リバー海軍航空基地にあるアメリカ海軍テストパイロット学校を卒業し、新型機のテストパイロットとなった[2][3][4]。そこで、後に名誉勲章を授与されることとなるジェームズ・ストックデールは、グレンに対し、数学や物理学を指導している[5]。最初の飛行試験機であるFJ-2/3戦闘機(F-86)を試験した際は、コックピットの減圧と酸素システムの故障に遭遇している[6]。その後、F7Uカットラス戦闘機やF8Uクルセイダー戦闘機の試験に携わっている[7]。1956年11月から1959年4月にかけては、海軍航空局の航空機設計部に関わり、メリーランド大学に通っている[8]。 グレンは、武器の担当であり、飛行中におけるテスト機の機銃発射実験などを担当した。1957年7月16日には、超音速としては初めてのアメリカ大陸横断飛行
テストパイロット
宇宙飛行士宇宙服に身を包んだグレン
1958年より開始された宇宙飛行士の選抜を受け、1959年に宇宙飛行士に選抜された。アメリカ初の7人の宇宙飛行士の一員(マーキュリー・セブン)となり、NASAのマーキュリー計画に従事。1962年のマーキュリー6号(フレンドシップ7)により、アメリカ初の地球周回軌道を飛行した宇宙飛行士となる。これは映画『ライトスタッフ』のモデルになっている。日本では、文藝春秋昭和37年5月号に、『宇宙最悪の旅』と題した回想記が発表された。海兵隊大佐で退役。同年コリアー・トロフィーを受賞した。
上院議員バラク・オバマ大統領より大統領自由勲章を授与されるグレン(2012)
1964年にはNASAを辞し実業家に転進。1974年より1999年までオハイオ州代表としてアメリカ議会上院議員を務める。1984年には民主党大統領予備選挙に出馬したが、途中で敗退した。