ジョン・ハモンド
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この項目では、音楽プロデューサーについて説明しています。息子のブルース歌手については「ジョン・P・ハモンド」を、『ジュラシック・パーク』シリーズの登場人物については「ジュラシック・パーク」をご覧ください。

ジョン・ハモンド
John Hammond
生誕John Henry Hammond II
(1910-12-15) 1910年12月15日
アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク
死没1987年7月10日(1987-07-10)(76歳)
国籍アメリカ人
出身校イェール大学
職業音楽プロデューサー
著名な実績コロムビア・レコード
配偶者ジェミソン・マクブライド (1941年?1948年)
エスマ・オブライアン・サーノフ (1949年?1986年 (彼女の死去))
子供ジョン・P・ハモンド
ジェイソン・ハモンド
親ジョン・ヘンリー・ハモンド
エミリー・ヴァンダービルト・スローン(英語版)
親戚ウィリアム・ヘンリー・ヴァンダービルト (曾祖父)
オグデン・ハモンド(英語版) (伯父)
ミリセント・フェンウィック(英語版) (従姉妹)
受賞ロックの殿堂メンバー
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ジョン・ハモンド(英語: John Hammond、本名・ジョン・ヘンリー・ハモンド2世、1910年12月15日 - 1987年7月10日) は、レコード・プロデューサーミュージシャン音楽評論家として、1930年代から1980年代はじめにかけて活躍した人物。特にA&R担当者として新たな才能を発掘することを通して、20世紀のポピュラー音楽において、最も影響力の大きかった人物のひとりとなった。

数多くのミュージシャンたちが、ハモンドによって世に出され、あるいはキャリアを成功させることになった。その中には、ベニー・グッドマンチャーリー・クリスチャンビリー・ホリデイカウント・ベイシーテディ・ウィルソンビッグ・ジョー・ターナーピート・シーガー、ババトゥンデ・オラトゥンジ(英語版)、アレサ・フランクリンジョージ・ベンソンボブ・ディランフレディ・グリーンレナード・コーエンブルース・スプリングスティーンアーサー・ラッセル、アシャ・プトゥリ(英語版)、スティーヴィー・レイ・ヴォーンらが含まれている。
来歴

[注釈 1][1]
生い立ちと家族

ハモンドは、父ジョン・ヘンリー・ハモンドにとって末子の長男であり、ジョン・ヘンリー・ハモンド・ジュニアと名付けられた。父ジョンはフィリップス・エクセター・アカデミーからイェール大学へ進み、コロンビア大学で法律の学位を得て卒業している。父ジョンの両親、つまりハモンドの父方の祖父母は、南北戦争時の将軍ジョン・ヘンリー・ハモンドとソフィア・ヴァーノン・ウォルフ(英語: Sophia Vernon Wolfe)であった。父ジョンは、スペイン大使を務めたオグデン・ハモンド(英語版)と兄弟であり、女性政治家ミリセント・フェンウィック(英語版)のおじであった。ハモンドの母エミリー・ヴァンダービルト・スローン(英語版)は、ハモンドの母方の祖父母であるウィリアム・ダグラス・スローン(英語: William Douglas Sloane)とエミリー・ソーン・ヴァンダービルトの間に生まれた三姉妹のひとりであった。エミリーの父ウィリアム・ヘンリー・ヴァンダービルトは、その父でエミリーの祖父コーネリアス・ヴァンダービルトが海運や鉄道で築いた財閥を継承した実業家で大富豪であった。

父ジョン・ヘンリー・ハモンドと、エミリー・ヴァンダービルト・スローンは、1899年4月5日に結婚した。2人の間には、ハモンドのほかに、エミリー、エイデル、レイチェル、アリス(英語: Emily, Adele, Rachel & Alice)と4人の姉たちが生まれた。アリスは、1942年ベニー・グッドマンと結婚している。

ウィリアム・ヘンリー・ヴァンダービルトの曾孫としてニューヨークの大富豪の家に生まれたハモンドは、子どものころから音楽への関心を示していた。4歳でピアノを習い始めたが、8歳でヴァイオリンに転向した。母エミリーはクラシック音楽へと息子を向かわせようとしたが、ハモンドは(その多くが黒人である)召使いたちが歌い奏でている音楽に興味をもった。10代の頃からハーレムへ通って黒人ミュージシャンたちの演奏を聴くようになり、黒人ミュージシャンたちには変わり者のマスコットとして受け入れられるようになった[2]1927年にはアルハンブラ劇場(英語版)でベッシー・スミスを聴き、生涯にわたる影響をうけた。

1929年、ホッチキス・スクール(英語版)[3]を卒業して、イェール大学に入学し、1933年卒業(予定)組の一員として、ヴァイオリンを専攻するが、後にヴィオラに専攻を変える。大学はコネチカット州ニューヘイブン市にあったが、ハモンドは頻繁にニューヨークに通い、専門誌に定期的に寄稿していた。1931年、ハモンドは大学を中退して、音楽業界で仕事を始め、まずイギリスの音楽業界誌『メロディ・メイカー(英語版)』の通信員となった。
初期の活躍

1931年、ハモンドはピアニスト、ガーランド・ウィルソン(英語版)の録音に出資し、レコード・プロデューサーとして、その後長く続く一連の芸術的な成功の第一歩を踏み出した。ハモンドはグリニッジ・ヴィレッジに移り住み、ボヘミアン的生活を送りながら、人種などによる差別のない音楽の世界のために働いた、と後に自身で語っている。ハモンドは、最も初期の定期的なジャズ・ライブの番組を立ち上げ、人種の分断についても定期的に文章で取り上げていた。ハモンドは回顧録で、「音楽の中には肌の色による線引きなど聴こえない…私が考えられる範囲では、ジャズにおけるニグロの優越性を認識することこそ、社会的な異議申し立ての最も効果的で、建設的な形である」と述べている[4]。なお、自分の業績について語る際にハモンドが誇張を交える傾向があることは注意を要するが、彼には自分の貢献を主張できることが多々ある。

当時からハモンドは、黒人差別に反対する立場を表明していたが、1931年アラバマ州で起きたスコッツボロ・ボーイズ(英語版)事件の裁判では、被告の黒人少年たちを支援するためにチャリティ・コンサートを組織し、ベニー・グッドマン楽団、デューク・エリントンマーサ・レイらが参加した[3]。ハモンドは、1933年にはアーネスト・グリューニングの求めに応じて、《ネーション》誌にこの裁判に関する記事を寄稿している[3]

1932年から1933年にかけて、ハモンドは、イギリスの音楽業界誌『メロディ・メイカー』との関係を通して、経営が揺らいでいた米国コロムビア・レーベルから、英国コロムビア・レーベルへ原盤(大部分はW-265000原盤シリーズを用いた)を供給する企画をまとめる。ハモンドは、フレッチャー・ヘンダーソンベニー・カーター、ジョー・ヴェヌーティ(英語版)などの演奏を録音したが、当時は経済情勢が悪い時期で、この企画がなければスタジオに入って本物のジャズを演奏する機会をもてなかったと思われる者も多かった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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