ジョン・ハブリチェック
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ジョン・ハブリチェック
John Havlicek
1960年代のハブリチェック
基本情報
愛称Hondo
国籍 アメリカ合衆国
生年月日1940年4月8日
没年月日 (2019-04-25) 2019年4月25日(79歳没)
出身地オハイオ州マーティンズフェリー
死没地フロリダ州ジュピター
身長196cm (6 ft 5 in)
体重92kg (203 lb)
キャリア情報
高校ブリッジポート高等学校(英語版)
大学オハイオ州立大学
NBAドラフト1962年 / 1巡目 / 全体7位[1]
ボストン・セルティックスから指名
プロ選手期間1962年?1978年
ポジションSF/SG
背番号歴17
永久欠番セルティックス  17 
経歴
1962?1978ボストン・セルティックス
受賞歴


NBAチャンピオン (1963-1966, 1968, 1969, 1974, 1976)

NBAファイナルMVP (1974)

13× NBAオールスター (1966-1978)

オールNBAファーストチーム (1971-1974)

オールNBAセカンドチーム (1964, 1966, 1968-1970, 1975, 1976)

NBAオールディフェンシブ・ファーストチーム (1972-1976)

NBAオールディフェンシブ・セカンドチーム (1969-1971)

NBAオールルーキー・ファーストチーム (1963)

NBA35周年オールタイムチーム

NBA50周年記念オールタイムチーム

NBA75周年記念チーム

No. 17 ボストン・セルティックス永久欠番

NCAAチャンピオン (1960)

オールアメリカン・コンセンサスセカンドチーム (1962)

オールアメリカン・サードチーム - AP (1961)

No. 5 オハイオステート・バックアイズ永久欠番

通算成績
得点数26,395 (20.8 ppg)
リバウンド数8,007 (6.3 rpg)
アシスト数6,114 (4.8 apg)
Stats  Basketball-Reference.com
Stats  NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten

バスケットボール殿堂入り選手 ( ⇒詳細)
カレッジバスケットボール殿堂入り (2006年)

ジョン・J・ハブリチェック (John J. Havlicek, 1940年4月8日 - 2019年4月25日) は、アメリカ合衆国オハイオ州マーティンズフェリー出身の元プロバスケットボール選手である。1960年代から1970年代にかけてNBAボストン・セルティックスで活躍した。攻守両面でチームの中核的な存在であり続け、セルティックスの黄金時代後期を支えた。1983年に殿堂入り。ニックネームのホンド (Hondo) は、ジョン・ウェイン主演の同名の映画にちなむ。プロ野球選手ブライアン・ブキャナンの岳父。
経歴
プロ入りまで

オハイオ州立大学在籍中の1960年、彼のチームはNCAAトーナメント制覇を果たしている。チームメートには、将来殿堂入りするジェリー・ルーカスやのちに監督としても有名になるボブ・ナイトがいた。

高校生の時にはアメリカンフットボールの選手としても有名で、大学時代にはバスケットボールに専念していたにもかかわらず、卒業時にはNFLクリーブランド・ブラウンズからも7順目でドラフトされている。NBAではボストン・セルティックスにより1順目で指名を受け、1962年にセルティックスに入団する。のちには偉大な選手として歴史に残るハブリチェックだが、当初のセルティックスは過大な期待はせず、ベンチメンバーの一人程度に考えていたようだ。
キャリア前半
「6番目の男」

この頃のセルティックスは、ビル・ラッセルビル・シャーマンボブ・クージーらの名選手たちにより4連覇を果たしていたところだった。新人のハブリチェックは控え選手としてチームに貢献、1963年にセルティックスは5年連続のリーグ制覇を実現した。

翌シーズンから数シーズンにわたってハブリチェックは控え選手だったが、チームへの貢献度の高さは明らかだった。ハブリチェックはシュートがうまく必要な時に得点することができ、リバウンドやパスでも印象的な数字を残した。ガード・フォワードの両方のポジションをこなし、ディフェンス面でも非常に優秀なオールラウンダーだった。スタミナに恵まれていることでも有名で、ニューヨーク・ニックスレッド・ホルツマン監督は「これほどスタミナのある選手は知らない」と語っている。

キャリア前半のハブリチェックは、ベンチから試合に投入されるシックススマン(sixth man)としてチームの連覇を支えた。控え選手であるにもかかわらず、数シーズンの間ハブリチェックはチームで最も出場時間の多い選手であり、得点でもチーム首位ないし2位だった。「6番目の男」の果たした役割は評価され、2年目の1964年、そして1966年から1970年にかけて連続でオールNBAセカンドチームに選出されている。
伝説的なスティール

ハブリチェックは勝負強さを持ち合わせた選手でもあった。よく知られるプレイは、1965年のプレイオフ、フィラデルフィア・セブンティシクサーズ(76ers)と対戦したイースタン・ディビジョン・ファイナルでのスティールである。最終の第7戦、残り5秒でセルティックスが110対109と1点リードしている場面で、76ersのハル・グリアからのインバウンズパスを弾き、セルティックスのNBAファイナル進出を決定させた。

このプレイは、長年にわたりセルティックスの試合のラジオ実況を勤めたアナウンサージョニー・モーストの Havlicek steals it!(「ハブリチェックがスティール!」) という絶叫で非常に有名になった。

NBAファイナルに進んだセルティックスはロサンゼルス・レイカーズを下し優勝を果たす。このシーズンを含め、セルティックスは1966年まで優勝し続け、8連覇という不朽の功績を残した。
キャリア後半

10年以上にわたりチームの中心だったビル・ラッセルが引退し、トム・ヘインソーンが監督に就任すると、ハブリチェックは先発となった。1969-70シーズンには得点、アシスト、リバウンドでチーム首位、翌シーズンには28.9得点、7.5アシスト、9.0リバウンド、出場時間もリーグ最長となり、オールNBAファーストチーム入りを果たした。このシーズンから1974年までオールNBAファーストチーム選出、そしてオールNBAディフェンシブファーストチームには1972年から1976年まで連続で選ばれた。


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