ジョン・ハブリチェック
John Havlicek
1960年代のハブリチェック
基本情報
愛称Hondo
国籍 アメリカ合衆国
生年月日1940年4月8日
没年月日 (2019-04-25) 2019年4月25日(79歳没)
出身地オハイオ州マーティンズフェリー
ジョン・J・ハブリチェック (John J. Havlicek, 1940年4月8日 - 2019年4月25日) は、アメリカ合衆国・オハイオ州マーティンズフェリー出身の元プロバスケットボール選手である。1960年代から1970年代にかけてNBAのボストン・セルティックスで活躍した。攻守両面でチームの中核的な存在であり続け、セルティックスの黄金時代後期を支えた。1983年に殿堂入り。ニックネームのホンド (Hondo) は、ジョン・ウェイン主演の同名の映画にちなむ。プロ野球選手ブライアン・ブキャナンの岳父。 オハイオ州立大学在籍中の1960年、彼のチームはNCAAトーナメント制覇を果たしている。チームメートには、将来殿堂入りするジェリー・ルーカスやのちに監督としても有名になるボブ・ナイト
経歴
プロ入りまで
高校生の時にはアメリカンフットボールの選手としても有名で、大学時代にはバスケットボールに専念していたにもかかわらず、卒業時にはNFLのクリーブランド・ブラウンズからも7順目でドラフトされている。NBAではボストン・セルティックスにより1順目で指名を受け、1962年にセルティックスに入団する。のちには偉大な選手として歴史に残るハブリチェックだが、当初のセルティックスは過大な期待はせず、ベンチメンバーの一人程度に考えていたようだ。 この頃のセルティックスは、ビル・ラッセル、ビル・シャーマン、ボブ・クージーらの名選手たちにより4連覇を果たしていたところだった。新人のハブリチェックは控え選手としてチームに貢献、1963年にセルティックスは5年連続のリーグ制覇を実現した。 翌シーズンから数シーズンにわたってハブリチェックは控え選手だったが、チームへの貢献度の高さは明らかだった。ハブリチェックはシュートがうまく必要な時に得点することができ、リバウンドやパスでも印象的な数字を残した。ガード・フォワードの両方のポジションをこなし、ディフェンス面でも非常に優秀なオールラウンダーだった。スタミナに恵まれていることでも有名で、ニューヨーク・ニックスのレッド・ホルツマン監督は「これほどスタミナのある選手は知らない」と語っている。 キャリア前半のハブリチェックは、ベンチから試合に投入されるシックススマン(sixth man)としてチームの連覇を支えた。控え選手であるにもかかわらず、数シーズンの間ハブリチェックはチームで最も出場時間の多い選手であり、得点でもチーム首位ないし2位だった。「6番目の男」の果たした役割は評価され、2年目の1964年、そして1966年から1970年にかけて連続でオールNBAセカンドチームに選出されている。 ハブリチェックは勝負強さを持ち合わせた選手でもあった。よく知られるプレイは、1965年のプレイオフ、フィラデルフィア・セブンティシクサーズ(76ers)と対戦したイースタン・ディビジョン・ファイナルでのスティールである。最終の第7戦、残り5秒でセルティックスが110対109と1点リードしている場面で、76ersのハル・グリアからのインバウンズパスを弾き、セルティックスのNBAファイナル進出を決定させた。 このプレイは、長年にわたりセルティックスの試合のラジオ実況を勤めたアナウンサージョニー・モースト NBAファイナルに進んだセルティックスはロサンゼルス・レイカーズを下し優勝を果たす。このシーズンを含め、セルティックスは1966年まで優勝し続け、8連覇という不朽の功績を残した。 10年以上にわたりチームの中心だったビル・ラッセルが引退し、トム・ヘインソーンが監督に就任すると、ハブリチェックは先発となった。1969-70シーズンには得点、アシスト、リバウンドでチーム首位、翌シーズンには28.9得点、7.5アシスト、9.0リバウンド、出場時間もリーグ最長となり、オールNBAファーストチーム入りを果たした。このシーズンから1974年までオールNBAファーストチーム選出、そしてオールNBAディフェンシブファーストチームには1972年から1976年まで連続で選ばれた。
キャリア前半
「6番目の男」
伝説的なスティール
キャリア後半