ジョン・ハウスマン
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この項目では、ルーマニアの俳優について説明しています。その他の用法については「ジョン・ハウスマン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ジョン・ハウスマン
John Houseman
1979年撮影
本名Jacques Haussmann
生年月日 (1902-09-22) 1902年9月22日
没年月日 (1988-10-31) 1988年10月31日(86歳没)
出生地 ルーマニア ブカレスト
民族ルーマニア系アメリカ人
ジャンル俳優
映画プロデューサー
活動期間1938年-1988年
配偶者Zita Johann (1929-1933)
Joan Courtney (1952-1988)

 受賞
アカデミー賞
助演男優賞
1973年ペーパーチェイス
ゴールデングローブ賞
助演男優賞
1973年『ペーパーチェイス
その他の賞

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舞台『マクベス

ジョン・ハウスマン(John Houseman, 1902年9月22日 - 1988年10月31日)は、ルーマニア生まれの俳優である。
来歴

俳優映画プロデューサーとして活躍したほか、数多くのハリウッド俳優たちから「師」と未だ仰がれ続けるハウスマンは、1902年ルーマニアブカレストに生まれる。母親はアイルランド人とウェールズ人の祖先を持つイギリス系で、父親はユダヤ系の家庭で育つ。後にイングランド南西部にあるクリフトン・カレッジへ進学すると、英国市民権を獲得。1925年には渡米し、芸能関係のキャリアをスタートさせる。さらに芸名にはそれまで名乗っていた“Jacques Haussmann”の本名ではなく、“John Houseman”に改名。後にオーソン・ウェルズと出会ったハウスマンは、ブロードウェイへ進出していくつもの舞台をプロデュース。

1934年1929年に起こったウォール街大暴落の影響で世間は世界恐慌にあえぐ時代であり、演劇界もその余波を浴びざるを得ない状況の最中、ハウスマンはたまたまキャスティングで役者候補を探している時に、後の盟友となるオーソン・ウェルズと出会う。1935年、大不況で困窮に陥る演劇人を救済する政策である連邦劇場計画(FTP)が開始され、ハウスマンとウェルズはアフリカ系アメリカ人の俳優やスタッフたちと演劇活動に励んだ。その甲斐もあり、同年に公演されたウェルズ演出、ハウスマンがプロデュースの『マクベス』は多くの観客を魅了した。

その後もいくつかのプロジェクトを得て、1937年にハウスマンらは劇作家のマーク・ブリッツスタインが脚本・作曲、オーソン・ウェルズが演出で労働者たちの反乱を描いたミュージカル『ゆりかごは揺れる (別題:クレイドル・ウィル・ロック)』の製作に着手。しかし労働組合側に立ったストーリー内容にFTP側が検閲を実施して「予算削減」を理由に製作中止を申し入れられてしまう。だがハウスマンらは、それでも公演を諦めずにとっさの処置を敢行。当時公演が行われる予定だった劇場の前に立ち、チケットを持ってやってきた観客たちを別の劇場へ誘導してブリッツスタイン一人がステージ上に立ち、ピアノを弾きながら楽曲を唄うという強硬手段に出る。すると観客席にいた役者(もともとその舞台に出演するはずだったが舞台に立つことを禁止された役者たち)が一人、また一人と観客席で歌い出し、ステージ上のブリッツスタインと観客席の役者たちで演劇が実行された。その上演を鑑賞していた観客たちからは大喝さいが起こり、演目は大成功を収める。その事は演劇界の“伝説”となっており、ティム・ロビンスが監督で『クレイドル・ウィル・ロック』という映画も製作されている。

『ゆりかごは揺れる』で大成功を収めたハウスマンとウェルズは、演劇人として立派な地位を確立したほか、「マーキュリー劇場」を設立。そこではウェルズが演出での『ジュリアス・シーザー』や『三人姉妹』や『ベガーズ・オペラ』、その他のシェイクスピアの戯曲が公演された。


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