この項目では、アメリカ合衆国の哲学者について説明しています。デューイ十進分類法を考案した図書館学者については「メルヴィル・デューイ」をご覧ください。
ジョン・デューイ
John Dewey1902年のデューイ
生誕 (1859-10-20) 1859年10月20日
アメリカ合衆国・バーリントン (バーモント州)
死没 (1952-06-01) 1952年6月1日(92歳没)
アメリカ合衆国・ニューヨーク
時代19世紀の哲学
20世紀の哲学
地域西洋哲学
学派プラグマティズム
研究分野認識論、報道、倫理学、教育哲学、社会思想
主な概念Reflective thinking
American Association of University Professors
ジョン・デューイ(John Dewey、1859年10月20日 - 1952年6月1日)は、アメリカ合衆国の哲学者。チャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェームズとならんでプラグマティズムを代表する思想家である。また米国では機能主義心理学[1]に貢献したことでも知られている。20世紀前半のアメリカ哲学者のなかでも代表的且つ進歩的な民主・民衆主義者(ポピュリスト)だった[2]。
リチャード・ローティは「最も敬愛する哲学者」として評価し、「われわれをプラトンとイマヌエル・カントの呪縛(ドグマ)から解放した[3]」と指摘したうえで、17世紀の哲学者がスコラ哲学に対して「革命」を興したように、「正確な表象」というそれまでの知識理論を拒絶した点でルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインとマルティン・ハイデッガーに並ぶとしている[4]。またヒラリー・パトナムもデューイをヒーローとしている[5]。 1859年、アメリカバーモント州バーリントン町の食料品店に、父アーチボルトと母ルシナの三男として生まれる。デューイ家はイギリスから移住してきた開拓者の末裔で、父はその四代目だった。裕福とはいえず、少年時代のジョン・デューイは、新聞配達や農場の手伝いなどをして小遣いを稼いでいた[6]。 15歳のとき、兄のDavis Rich Dewey[注 1]が通っていた名門バーモント大学に入学。大学ではチャールズ・ダーウィンの進化論やオーギュスト・コントの実証主義哲学・社会哲学などに感化された[6]。成績優等のためThe Phi Beta Kappa Societyに入会。 バーモント大学卒業後はペンシルベニア州で高校教師を2年間務めたが、中等高等教育機関での教師には自分は向かないと考えるようになり、バーモント州の小学校で一年ほど勤務する。1882年、ジョンズ・ホプキンズ大学大学院に再入学し、心理学者スタンレー・ホールのもとで学んだ後、同大学心理学研究所で働きながら、博士号を取得。出版されず紛失した博士論文の題は「カントの心理学」だった。1884年からミシガン大学に勤務。2年間講師を務めたあと、助教授に、1889年に30歳で教授になる。 このミシガン時代にはヘーゲルおよびドイツ観念論を主に研究していたが、1891年に留学先のドイツから帰国し同大学講師になったジョージ・ハーバート・ミードと交友関係をむすび、ヘーゲルの影響圏から抜け出す。ミードはウィリアム・ジェイムズの教え子であり、デューイはジェイムズにも影響を受けるようになる。 1894年、新設されたシカゴ大学に哲学科主任教授として招かれ、ミードとともに移る。シカゴ時代に経験に基礎づけられた知識の理論を開発し、Thought and its Subject-Matterとしてまとめられ、さらに大学同僚との共著『Studies in Logical Theory (1903)』として出版される。のち新しいプラグマティズムとして認知される。 1896年には既存の心理学を根底から覆した、初期の最も重要な仕事ともいわれる「心理学における反射弓の概念The Reflex Arc Concept in Psychology」を発表する。同年1月、実験学校Laboratory School(のちシカゴ大学付属実験学校)をつくる。個人宅を借り、生徒は16人、教師は1人(他に補助教師が1人)であった。様々な折衝を経て、1898年秋には実験室や食堂などを敷設した校舎に移る。生徒は82人になっていた[6]。翌1899年4月、関係者や生徒の親たちを前に、3年間の実験の報告を3度行う。この講演の速記をもとに出版されたのが後に教育理論の名著として知られることになる『学校と社会』(1899年)である。なお実験学校は1903年まで続き、のちデューイスクールと呼ばれる。なお同年、アメリカ心理学会会長に選出されてもいる。
略歴と業績
バーモント大学学生時代とミシガン大学教授
シカゴ時代