ジョン・デュポン
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ジョン・エルテール・デュポン(John Eleuthere du Pont, 1938年11月22日 - 2010年12月9日)は、かつてデュポン財閥の資産相続人の一人であり、殺人で有罪判決を受けた人物である[1][2]。いくつかの本を書いた鳥類学者でもあり、貝類学者、切手蒐集家、スポーツ支援者やコーチとしての顔も持っていた。慈善事業としてデラウェア自然博物館を設立し、いくつもの施設に寄付を行ってもいる。

1980年代に五種競技に興味を抱いたことから、所有するフォックスキャッチャー農場にレスリング施設を建設する。彼はアマチュアスポーツの支援者、アメリカレスリングチームの支援者として有名であった。1990年代には彼の突飛な行動や強迫性障害的行動は友人らに心配されるほどになっていたが、彼は莫大な資産を持っていたためにそのことが表に出ることはなかった[3]。1996年に彼は友人でありレスリングのフリースタイル金メダリストであるデイヴ・シュルツを殺害する。

2014年には殺害事件に至る経緯を描いた映画『フォックスキャッチャー』において、スティーヴ・カレルがデュポンを演じてアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた[4][5]
幼少期

ジョン・デュポンは、1938年11月22日にペンシルベニア州フィラデルフィアにて生まれた。ウィリアム・デュポン・ジュニアとジーン・リスター・オースティンとの間に生まれた末子であった。母方の祖父が夫妻にペンシルベニア州ニュートンにある200エーカー以上の広さを持つ土地を与え、父方の祖父がリスターホールという名の大邸宅を建て、ジョンはそこで育った[6]。母方の家系も父方の家系も、19世紀初頭にアメリカに移住してきて成功した一族であった。

1920年代から1930年代にかけて夫妻はさらなる土地を相続し、リスターホール農場を発展させて販売用・競争用サラブレッドを飼育した。ジョンが2歳のときに両親は離婚し、母が農場を相続した。彼女はサラブレッドに加え、ジャージー乳牛とウェルシュポニーも飼育した。ジョンには二人の姉と、兄、腹違いの弟がいた。

デュポンは1957年にハヴァーフォードスクールを卒業し、ペンシルベニア大学に入学したが一年次で中退した[7]。のちにフロリダ州マイアミ大学に入学し[8]、1965年に動物学の学位をとって卒業、1973年にヴィラノヴァ大学にて自然科学博士号をとった。
科学者として

大学を卒業すると、デュポンは鳥類探索隊に参加してフィリピンや南太平洋を訪れた。鳥類学者として20もの新種の鳥類を発見したとされる。1957年にはデラウェア自然博物館を設立した。若年ながら博物館の経営に携わり、また長らくフィールドワークを行ってきた自然科学者として、博物館のディレクターも務めた。
私生活

1983年9月3日、45歳のときにデュポンは29歳のセラピストであるゲール・ウェンクと結婚する。彼が自動車事故で負傷したことが出会うきっかけとなった[9]。しかし二人が一緒に暮らしたのは6か月にも満たず[10]、デュポンは結婚後10か月で離婚を申し立てた。ウェンクは、デュポンが拳銃を自分に向けたり自分を暖炉に突き倒そうとしたとしてデュポンに対し500万ドルの請求を起こした[9]。1987年に離婚は成立し[10]、デュポンはウェンクを自らの資産の相続人から完全に排除した[11]。1987年時点でデュポンが持つ資産は2億ドルに達していたという[12]
興味を持ったもの
切手蒐集

デュポンは切手蒐集家として有名であった。1980年のオークションで「英領ギアナ1セント・マゼンタ」という1856年に発行された有名な切手を、93万5000ドルで匿名にて競り落とした[13]。この切手は彼の死後サザビーズで再びオークションにかけられ、950万ドルで落札された。この際にこの切手は、一枚の切手の売却額としての最高額を4度目に更新したことになる[14]。この切手以外にもデュポンは多くのコレクションを持っていた。彼は遺言を残し、売却額の80%はブルガリア人レスラーのバレンティン・ヨルダノフ・ディミトロフの家族に贈り、20%はデュポンが太平洋の野生動物を保護するためにペンシルベニア州パオリに創立したユーラシア・太平洋・野生動物財団に寄付しようとした[14](しかし関係者によって多数の異議申し立てが行われた)。
運動競技

デュポンは母の死により受け継いだニュートンスクウェアにある440エーカーものリスターホール農場を、高度な設備のレスリング施設に変え、アマチュアレスラーに開放した[15]。彼は父が持っていた競走馬にちなんで、私的なレスリングチームを「フォックスキャッチャー」と名付けた。デュポンはオリンピックを目指す水泳・レスリングのトレーニングセンターを作り、それらの競技大会のスポンサーにもなった。また、オリンピック金メダリストであるレスリング選手の兄弟、デイヴ・シュルツ、マーク・シュルツ、そしてデイヴの妻に敷地内の住居を提供した。シュルツはチーム「フォックスキャッチャー」のコーチも務めた。

デュポンはレスリングと水泳トラック競技近代五種のスポンサーとなった。近代五種の各競技(ランニング水泳射撃)それぞれを宣伝するイベントを開いたりもした[16][17]。自身が競技を行うことにも興味を示し、高校生の時に少しやったきりであるレスリング競技に50代になってから取り組んだりもした。55歳のときには競技大会にも出始め、1992年にコロンビアのカリで開かれたシニア世界大会に出場したのを皮切りに、1993年、1994年[18]、1995年の大会にも出場した。
デイヴ・シュルツの殺害

1996年1月26日、デュポンはデイヴ・シュルツを射殺した。自身の800エーカーの私有地内にあったシュルツ家の私道においてである。シュルツの妻であるナンシーとデュポン警護の責任者であったパトリック・グッデールがその場におり、現場を目撃していた。デュポンがシュルツに3発の銃弾を撃ち込むのを、グッデールはデュポンの車の助手席から見た。警察は殺害の動機を見出すことが出来なかった。シュルツは長らくデュポンのレスリングチームのコーチを務めており、デュポンがアルコール中毒を克服する手助けすらしていたのである[3]

デュポンの友人たちは彼の発砲を信じられないと言った。カリフォルニア州から来た三種競技選手のジョイ・ハンセン・ロイトナーは、デュポンのトレーニング施設で2年を過ごしており[19]、デュポンが彼女を辛い状況から救い出してくれたことを語った。「家族や友人とともに、ジョンは私に人生の新しい期間を与えてくれたのです。彼は金銭的援助のみならず、心に寄り添ってくれたのです」。彼女は殺人を信じられないと言った。「ジョンが正気だったなら、デイヴを殺すなんてことはできないはずです」[3]。ニュートン郡政執行者であるジョン・S・カスター・ジュニアは、「殺害のその瞬間、ジョンは自分が何をしているのか分かっていなかった(のだろう)」と語っている[20]。デュポン家の管理人を30年勤めたチャールズ・キング・シニアとその息子も、デュポンのことをよく知っている(からそんな事を彼がするなんて考えられない)と言った。

しかし多くの人々が、事件が起こる数か月前からデュポンの行動が次第に破たんしつつあると気づいていた[19]。チャールズ・キング・シニアはデュポンの「警備顧問」であるパトリック・グッデールが事件に影響を与えたと非難している。「ジョンが誰かを撃つなんて考えられません。誰かにそそのかされたり、ドラッグでもやっていなければ。うちの息子も、あいつがうろつき始めてからジョンは変わってしまった、と言っていました。何に対しても恐れるようになったのです。正気を失ってしまったのです。そんな彼でさえ、私も息子も受け入れることが出来たのに」[20]


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