ジョン・ダン
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この項目では、近世イギリスの詩人について記述しています。その他の同名の人物については「ジョン・ダン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ジョン・ダン

誕生1572年
ロンドン
死没1631年3月31日
職業詩人、作家、司祭
国籍 イングランド
文学活動形而上詩人
ウィキポータル 文学
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ジョン・ダン(John Donne, 1572年 - 1631年3月31日)は、イングランド詩人著作家、後半生はイングランド国教会司祭

カトリックの家の生まれで、イングランド国教会に改宗するまで宗教的迫害を経験した。優れた教養と詩の才能にもかかわらず、長く貧困の中で生き、富裕な友人たちに頼らざるを得なかった。1615年に国教会の司祭になり、1621年セント・ポール大聖堂の首席司祭(Dean of St Paul's)に任ぜられた。そういった背景がダンの文学作品(初期の恋愛詩・風刺詩から晩年の宗教的講話に至るまで)に反映しているという意見がある。

大胆な機知と複雑な言語を駆使し、恋愛詩、宗教詩、講話を書く。形而上詩人の先駆者とされる。代表作に『蚤』、『日の出』といった唄とソネット、「死よ驕るなかれ」の一節で知られる『聖なるソネット10番』や『冠』といった宗教詩がある。T・S・エリオットらに影響を与え、ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls)』のタイトルはダンの説教の一節から取られている。
初期の人生若き日のジョン・ダンの肖像

ジョン・ダンはロンドンに生まれた。時期は、1571年の末か1572年1月から6月19日の間のいつかとされる[1]。6人いる子供の中で上から3番目だった。父親はウェールズ系で、名前は同じジョン・ダン。シティ・オブ・ロンドンで金物屋の管理人をしていて、カトリック教徒だった[2][3]。その父親が1576年に亡くなり、母親エリザベス・ヘイウッドが子供たちを育てなければならなくなった[3]。エリザベスは劇作家ジョン・ヘイウッド(英語版))の娘で、兄弟に翻訳家でイエズス会士のジャスパー・ヘイウッド(英語版)がいて、やはりカトリック教徒だった。カトリックの有名な殉教者トマス・モアの妹の孫でもあった[4]。殉教の伝統はなおもダンの近親者の間で続いていて、多くの人が宗教的理由のために追放されていた[5]。それにもかかわらず、ダンはイエズス会の教育を受けさせられた[4]。エリザベスは夫の死の2、3か月後に、裕福な男やもめで13人の子供を持つジョン・シミングス博士と再婚した。翌1577年、ダンの妹で母親と同名のエリザベスが亡くなり、さらに2人の姉妹メアリーとキャサリンも1581年に亡くなった。ダンは10歳になる前に、4人の肉親の死を経験したわけである。ジョン・ダンのパーフォードの家の一部

ダンは11歳でオックスフォード大学ハート・ホール(現オックスフォード大学ハートフォード・カレッジ)に入学した。そこで3年間学んだ後、ケンブリッジ大学に移り、さらに3年間学んだ。しかし、ダンは学位を得ることができなかった。理由はダンが卒業に必要な「至上権承認の宣誓」を拒否したからだと言われている[4]1591年、ダンはロンドンの法曹院の1つセイヴィス・インの法学院に入った。1592年には別の法曹院リンカーンズ・インの法学院に移った[4]1593年、弟のヘンリーがカトリックの僧侶を匿った罪で逮捕された。ヘンリーは腺ペストのため獄中で死に、ジョン・ダンはカトリック信仰に疑問を抱き始めた[3]

それからのダンは、在学中・卒業後、女性・文学・レクリエーション・旅に多くの時間を費やすようになった[4][2]。ダンがどこに旅行したかは詳しい記録は残っていないが、わかっているのは、第2代エセックス伯ロバート・デヴァルーやサー・ウォルター・ローリーとともにカディス(1596年)ならびにアゾレス諸島(1597年)でスペイン軍と戦ったことである。この時、ダンはスペインの旗艦サン・フェリペ号が乗組員ともども沈没する現場を目撃している[6][3][7]。1640年にダンの伝記を書いたアイザック・ウォルトンによれば、「彼は数年イングランドに戻らなかった。最初はイタリアに、それからスペインに滞在し、そこで彼はその国の政府の法と慣習を有意義に観察し、その国の言葉を完全に習得してから帰国した」ということである。

こうしてダンは25歳になるまでに外交官になれる経歴を積んだ[6]。それから国璽尚書サー・トマス・エジャトンの第一秘書に任命され、イングランド社交界の中心ホワイトホール宮殿に近いエジャトンのロンドンの屋敷ヨーク・ハウス(York House, Strand)に住んだ。そこで4年間働いている間に、ダンはエジャトンの17歳になる姪(14歳、16歳という説もある)アン・モアと恋に落ちた。2人は1601年、エジャトンとアンの父でロンドン塔長官代理のジョージ・モアの反対に遭いながらも、ひそかに結婚した。このことでダンのこれまでのキャリアは台無しになったばかりか、2人を結婚させた司祭、結婚式の立会人を演じた男とともにフリート監獄(Fleet Prison)にしばらく投獄されてしまった。結婚が合法的と認められ釈放されたが、ウォルトンによれば、ダンは妻に宛てた手紙に、「John Donne, Anne Donne, Un-done(ジョン・ダン、アン・ダン、おしまいだ)」と書いたという。ダンが義理の父と和睦し、持参金を受け取ったのは1609年になってからだった。

釈放後、ダンはサリーのパーフォード(Pyrford)という田舎に引っ込んで生活することを余儀なくされた[4]。それから2、3年、ダンは弁護士として貧乏暮らしをし、妻の従兄弟のサー・フランシス・ウリーの世話になった。アン・ダンはほぼ毎年のように子供を出産したので、ウリーの好意はとても気前の良いものだった。

ダンは弁護士のかたわら、トマス・モートン()の小論文執筆者助手もしていたが、家族が増えるばかりで生活は常に不安定だった[4]。アンとの間に12人の子供を儲けた(うち2人は死産)。長女コンスタンス、長男ジョン、次男ジョージ、三男フランシス、次女ルーシー(ダンの後援者で名付け親のベッドフォード伯爵夫人ルーシー Lucy Russell, Countess of Bedfordにちなんで命名された)、三女ブリジット、四女メアリー、四男ニコラス、五女マーガレット、六女エリザベスである。このうちフランシスとメアリーは10歳になる前に亡くなったが、ダンはその埋葬費を工面することができなかった。この時期ダンは大胆な自殺の弁明『ビアサナトス(Biathanatos)』を書いたが出版はされなかった[8]
初期の詩

ダンの初期の詩はイングランドの社交界に鋭い批評を向けたものだった。法体系の堕落、二流の詩人、尊大な廷臣といったエリザベス朝のよくある出来事をテーマにしたダンの風刺詩は、知的洗練さときわだったイメージ(病気、嘔吐、肥やし、ペスト)がずば抜けていた。その中でも『風刺詩III』はダンにとって大変重要なテーマ、つまり真の宗教の問題を扱っていた。ダンは、既定の伝統に盲目的に従うよりも、人の宗教的信念を慎重に検討するべきだ、なぜなら「A Harry, or a Martin taught [them] this(ハリーとかマーティンとかがそう教えた)」と言ったからといって最後の審判で救われるものは誰もいないから、と主張した[5]

ダンの初期の詩、とくにエレジーには、エロティックな詩が多かった。たとえば、『蚤(The Flea)』という詩では、型破りなことに、恋人たちの血を吸う蚤がセックスのメタファーに使われている[6]


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