ジョン・タルボット_(初代シュルーズベリー伯)
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初代シュルーズベリー伯爵
ジョン・タルボット
John Talbot
1st Earl of Shrewsbury
シュロップシャー・ウィッチチャーチ(英語版)・聖アルクムンド教会(英語版)にある彫像の描画

称号初代シュルーズベリー伯爵、初代ウォーターフォード伯爵、第7代タルボット男爵(英語版)、第10代ブラックミアのストレンジ男爵ガーター勲章ナイト(KG)
死去1453年7月17日
フランスガスコーニュカスティヨン
配偶者モード(旧姓ネヴィル)
 マーガレット(旧姓ビーチャム)
子女下記参照
父親4代タルボット男爵リチャード・タルボット
母親7代ストレンジ女男爵アンカレット・タルボット
役職アイルランド総督(1414年 - 1419年、1425年)、フランス軍総司令官(フランス語版)(1445年 - 1453年)、アイルランド王室侍従長(英語版)(1446年 - 1453年)
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初代シュルーズベリー伯爵ジョン・タルボット(英語: John Talbot, 1st Earl of Shrewsbury, KG、生年不詳 - 1453年7月17日)は、イングランドの貴族、軍人。Talbotの日本語表記はトールボットが定訳[1]

百年戦争中のイングランド軍の主要な指揮官の一人であり、ランカスター朝における唯一のフランス軍総司令官(英語版、フランス語版)である。シュルーズベリー伯爵タルボット家(チェットウィンド=タルボット家)の祖にあたる。
生涯
初期の経歴

イングランド・シュロップシャー・ブラックメア(英語版)に生まれる[2]。父は第4代タルボット男爵(英語版)リチャード・タルボット、母はその妻アンカレット(第4代ブラックミアのストレンジ男爵リチャード・タルボットの娘で後に第7代ブラックミアのストレンジ女男爵位を継承した)[3][4]。彼は夫妻の次男にあたり、兄に第5代タルボット男爵・第8代ストレンジ男爵となるギルバート・タルボットがいる[5][6]

生年は1373年とも[2]1390年[3]ともいわれる。タルボット家はノルマンディーのコー地方に起源をもつノルマン人の家系であるという[2]

1404年から1413年にかけて、兄ギルバートと共にオワイン・グリンドゥール(オウェイン・グレンダワー)の反乱ウェールズ方面の戦争に従軍した[4]

1413年3月にヘンリー5世が即位した際に一時逮捕されてロンドン塔へ投獄されるもすぐに釈放された[7]。釈放後、ウェックスフォードに領地を持っていた事から、1414年の2月から5年にわたってアイルランド総督を務めた。しかし何度かの戦闘を行い、第4代オーモンド伯爵ジェイムズ・バトラー(英語版)と対立したり、アイルランドにおける苛烈な統治と、ヘレフォードシャーでの残虐行為により告訴されている[4]
百年戦争に参戦

1420年から1424年にかけてフランスに派遣され[4]、1424年8月のヴェルヌイユの戦いで指揮を執り、この際の戦功でガーター騎士団(勲章)ナイトに叙せられた[7]

1418年10月19日に兄が死去し、その娘で姪アンカレット・タルボットが第6代タルボット男爵位と第9代ストレンジ男爵位を継承したが、彼女も1421年12月13日に幼くして死去したため、ジョンが第7代タルボット男爵位と第10代ストレンジ男爵位を継承することになった[5][6]

この後、1425年にごく短期間だが、アイルランド総督に再任されている[4]
1427年から1431年にかけての戦闘

1427年に再びフランスに赴き、舅である第13代ウォリック伯リチャード・ド・ビーチャムの指揮のもとモンタルジの戦いに参加するが、敗北した[7]。しかし1428年にはラヴァルル・マンの奪取に貢献、ロエアック領主アンドレ・ド・ラヴァルを捕虜とした[8]

同年から1429年にかけて行われたオルレアン包囲戦でも司令官のソールズベリー伯トマス・モンタキュートが11月に戦死するとサフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポールトーマス・スケールズと共に指揮官の1人として活躍するが[9]、1429年5月にジャンヌ・ダルク率いるフランス軍の手によってオルレアンが解放されると、他のイングランド軍と共に敗走した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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