ジョン・セジウィック
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ジョン・セジウィック
John Sedgwick
1813年9月13日-1864年5月9日(50歳没)
ジョン・セジウィック将軍
渾名ジョン叔父さん
生誕コネチカット州コーンウォール
死没バージニア州スポットシルバニア郡
軍歴1837年-1864年
最終階級少将
指揮第6軍団
戦闘

セミノール戦争
米墨戦争
ユタ戦争
インディアン戦争
南北戦争

半島方面作戦

セブンパインズの戦い

グレンデイルの戦い


アンティータムの戦い

チャンセラーズヴィルの戦い

ゲティスバーグの戦い

オーバーランド方面作戦

荒野の戦い

スポットシルバニアの戦い


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ジョン・セジウィック(: John Sedgwick、1813年9月13日-1864年5月9日)は、アメリカ合衆国の教師、職業軍人である。南北戦争では北軍の将軍だった。スポットシルバニア・コートハウスの戦いで戦死した時のことはしばしば良く知られた皮肉の話と考えられている。
初期の経歴

セジウィックはコネチカット州のリッチフィールドヒルズ、コーンウォールの町で生まれた。その名前は祖父でジョージ・ワシントンに仕えたアメリカ独立戦争の将軍ジョン・セジウィック(セオドア・セジウィックの兄弟)に因んで名付けられた。セジウィックは2年間教師を務めた後で、陸軍士官学校に入り、1837年に50人の同期士官候補生のうち24番目の成績で卒業し、アメリカ砲兵隊の少尉に任官された。セミノール戦争に従軍し、米墨戦争では2度名誉昇進を果たし、コントレラスの戦いチュルブスコの戦いで大尉、チャパルテペクの戦いで少佐となった。メキシコから帰還すると騎兵隊に転属となり、カンザス州で勤務し、ユタ戦争インディアン戦争で戦った。

1860年の夏と秋に、現在はコロラド州のプラット川沿岸に新しい砦を建設する遠征隊を率いた。補給物資がカンザス州の一番近い砦から荷馬車隊で運ばれてくるはずのものが来ないという状況で大変辛い思いをしたが、何とか寒い季節が到来する前に快適な兵舎を建てることができた。これらの建物は大部分石で作られ、屋ねや戸には木材を使っていた。この基地の遠隔性を現在理解するのは難しいが、当時ミシシッピ川の西には鉄道がなく、セントルイスカンザスシティとの交信は川舟を使い、さらに西へは荷馬車隊か馬の背を使った[1]
南北戦争

南北戦争が始まると、セジウィックはワシントン方面軍の大佐および監察長官補として仕えた。初期の戦闘である第一次ブルランの戦いは、コレラに罹った後の快復期だったために参戦できなかった。1861年8月31日に准将に昇進し、ポトマック軍でサミュエル・P・ハインツェルマン少将師団の第2旅団指揮官となり、その後の半島方面作戦では第2軍団の第2師団を率いた。バージニア州では、ヨークタウンの包囲戦セブンパインズの戦いに参戦し、グレンデイルの戦いで腕と足に負傷した。1862年7月4日に少将に昇進した。

アンティータムの戦いの時、第2軍団指揮官エドウィン・サムナー少将は適切な偵察も無く衝動的にセジウィックの師団を大規模攻撃に送り込んだ。その師団はストーンウォール・ジャクソン少将の指揮する南軍に3方から攻撃され、2,200名の損失を出した。セジウィック自身も3発の銃弾が当たり、手首、足および肩を負傷し、フレデリックスバーグの戦いの後まで戦闘に参加できなかった。

1862年12月26日、セジウィックは短期間第2軍団と第9軍団を率い、続いてポトマック軍の第6軍団指揮官となり、これを1864年に戦死するまで続けた。チャンセラーズヴィルの戦いでは、その軍団が最初の持久戦の時にフレデリックスバーグに面した陣地におり、一方ジョセフ・フッカーの他の4個軍団はロバート・E・リー軍の左側面に回り込んだ。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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