ジョン・スペンサー_(第3代スペンサー伯爵)
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イギリス政治家第3代スペンサー伯爵
ジョン・スペンサーJohn Spencer, 3rd Earl Spencer
ヘンリー・ピアーズ・ボーン(英語版)画
生年月日1782年5月30日
出生地 グレートブリテン王国ロンドンスペンサー・ハウス
没年月日 (1845-10-01) 1845年10月1日(63歳没)
死没地 イギリスイングランドノッティンガムシャー・ウィセトンホール
出身校ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ
所属政党ホイッグ党
称号枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS)、スペンサー伯爵
配偶者エスター(Esther)
大蔵大臣
内閣グレイ伯爵内閣
第一次メルバーン子爵内閣
在任期間1830年 - 1834年
庶民院院内総務
内閣グレイ伯爵内閣
第一次メルバーン子爵内閣
在任期間1830年 - 1834年
貴族院議員
在任期間1834年11月10日 - 1845年10月1日[1]
庶民院議員
選挙区オークハンプトン選挙区(英語版)
ノースハンプトンシャー選挙区(英語版)
サウス・ノーザンプトンシャー選挙区(英語版)[1]
在任期間1804年4月27日 - 1806年11月1日
1806年11月12日 - 1832年12月10日
1832年12月10日 - 1834年11月10日[1]
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第3代スペンサー伯爵ジョン・チャールズ・スペンサー(: John Charles Spencer, 3rd Earl Spencer, PC, FRS1782年5月30日 - 1845年10月1日)は、イギリスの政治家、貴族。

1830年から1834年にかけてのホイッグ党政権(グレイ伯爵内閣、第一次メルバーン子爵内閣)で庶民院院内総務大蔵大臣を務めた。

父が爵位を継承した1783年から自身が爵位を継承する1834年までオールトラップ子爵(Viscount Althorp)の儀礼称号を使用した[2]
経歴

1782年にオールトラップ子爵ジョージ・スペンサー(後の第2代スペンサー伯爵)の長男としてスペンサー伯爵家のロンドンの邸宅スペンサー・ハウスに生まれる。母はレディ・ラヴィニア・ビンガム(初代ルーカン伯爵チャールズ・ビンガムの娘)[2]1783年に父がスペンサー伯爵位を継承したのに伴い、オールトラップ子爵の儀礼称号を使用した。

ハーロー校を経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ進学し、1802年に大学を卒業[3]。1804年にオークハンプトン選挙区(英語版)からホイッグ党候補として出馬して庶民院議員に当選。1806年から1832年にかけてはノースハンプトンシャー選挙区(英語版)から選出される[2]

ホイッグ党は1780年代から長い野党時代が続いており、1806年チャールズ・ジェイムズ・フォックスが死去した後にはいくつかの党派に分裂していた。オールトラップ卿はホイッグ党の若手議員の集団である青年ホイッグ派(Young Whig)と呼ばれる勢力のリーダー的存在だった。1827年に成立したジョージ・カニング内閣はトーリー党政権ながらトーリー党が分裂状態だったため、トーリー党の一部とホイッグ党の一部が連立する内閣となった。しかしオールトップ卿はカニングが選挙法改正に消極的であるとして協力を拒否した[4]。オールトラップ卿は熱心な選挙法改革論者であるとともにカトリック解放支持派でもあった[5]

1830年にトーリー党政権のウェリントン公爵内閣が崩壊するとホイッグ党の各党派に選挙法改正を前提とした連携が成立した。オールトラップ卿もこれに協力した[6]。その結果グレイ伯爵内閣が成立した。オールトラップ卿はグレイ伯爵との関係がよく、内閣に庶民院院内総務大蔵大臣という重要ポストで入閣している[2][7][8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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