ジョン・スペンサー=チャーチル_(第7代マールバラ公)
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イギリス政治家第7代マールバラ公爵
ジョン・スペンサー=チャーチルJohn Spencer-Churchill,
7th Duke of Marlborough

生年月日1822年6月2日
出生地 イギリスイングランドノーフォーク
没年月日1883年7月4日 (満61歳没)
死没地 イギリス、イングランド、ロンドン
出身校オックスフォード大学オリオル・カレッジ
所属政党保守党
称号第7代マールバラ公爵ガーター勲章勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC)
配偶者フランセス・アン(英語版)
親族ランドルフ卿(三男)
ウィンストン(孫)
枢密院議長
内閣第3次ダービー伯爵内閣
第1次ディズレーリ内閣
在任期間1867年3月8日 - 1868年12月9日
アイルランド総督
内閣第2次ディズレーリ内閣
在任期間1876年12月11日 - 1880年4月21日
庶民院議員
選挙区ウッドストック選挙区(英語版)[1]
在任期間1844年4月22日 - 1845年[1]
1847年7月29日 - 1857年7月1日[1]
貴族院議員
在任期間1857年7月1日 - 1883年7月5日[1]
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第7代マールバラ公爵ジョン・ウィンストン・スペンサー=チャーチル(: John Winston Spencer-Churchill, 7th Duke of Marlborough, KG, PC, 1822年6月2日 - 1883年7月4日)は、イギリス政治家貴族

ヴィクトリア朝期の1857年から1883年にかけてマールバラ公爵家の当主だった。家が傾いている時期の当主であり、家計のやり繰りに苦労した。保守党の政治家でもあり、ベンジャミン・ディズレーリの内閣で枢密院議長アイルランド総督を務めた。

1840年まではサンダーランド伯爵(Earl of Sunderland)、1840年から1857年にはブランドフォード侯爵(Marquess of Blandford)の儀礼称号を使用した。

後の英国首相ウィンストン・チャーチルの祖父にあたる。
生涯1871年7月8日の『バニティ・フェア』誌に描かれたマールバラ公の似顔絵。

イングランドノーフォークのガーボールディシャム・ホール(Garboldisham Hall)に生まれる。父はブランドフォード侯爵ジョージ・スペンサー=チャーチル(後の第6代マールバラ公爵)。母はギャロウェイ伯爵(英語版)の娘ジェーン[2]

出生時よりマールバラ公爵家の嫡孫としてサンダーランド伯爵の儀礼称号を持っていた。イートン校を経てオックスフォード大学オリオル・カレッジを卒業した。1840年に祖父である第5代マールバラ公爵ジョージが死去、父がマールバラ公爵位を継いだことでマールバラ公爵家の跡取りの儀礼称号ブランドフォード侯爵を継承した。

1844年ウッドストック選挙区から当選を果たし、保守党の庶民院議員となった[1]。この選挙区はマールバラ公爵家の領地であり、マールバラ公爵が候補者指名権を持っていた[3]

1857年に父の死によりマールバラ公爵位と家督を相続し、貴族院議員に列する。彼が当主の時代はヴィクトリア朝にあたるが、この時代、商工業の発展で地主はますます没落しており、マールバラ公爵家も家計が苦しくなる一方だった[4]。この頃、ベンジャミン・ディズレーリヴィクトリア女王に「(マールバラ公爵家は)公爵にしては金持ちではありませんね」と語ったという[5]

だがマールバラ公爵は、放蕩家だった父を反面教師として育ったことで几帳面でしまり屋な性格だった[6]。曾祖父の第4代マールバラ公爵が収集した宝石類、先祖伝来の文庫などを次々と売却することで家計の改善に尽力した[4][7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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