ジョン・ジェームズ・ハイデッガー
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ハイデッガーの肖像(1749年)

ジョン・ジェームズ・ハイデッガー(英語: John James Heidegger、ドイツ語: Johann Jakob Heidegger、1666年6月16日 - 1749年7月9日)は、スイス出身でイギリスで活躍したオペラ興業主(インプレサリオ)。
生涯

ハイデッガーはスイスのチューリッヒに生まれた。ドイツ語での名前はヨハン・ヤーコプ・ハイデッガーだった。父親は神学者チューリッヒ大学教授のヨハン・ハインリヒ・ハイデッガー (Johann Heinrich Heidegger) である[1]

ハイデッガーが渡英した時期は不明だが、1707年にドルリー・レーン劇場で活動していることから、それ以前にロンドンに住んでいた[2]。ハイデッガーはアン女王、ジョージ1世ジョージ2世の時代を通じて王室に愛された[1]。ジョージ2世はハイデッガーを宮廷祝典局長 (Master of the Revels) に任命した[1]

ハイデッガーはヘイマーケット女王劇場の副支配人だったが、1713年に支配人のオーウェン・スウィニー (Owen Swiny) が金庫を持って大陸へ夜逃げすると、かわって自分が支配人になった[3]。1713年から1738年までヘイマーケット劇場の支配人をつとめた[1]、また1720年に新たに結成されたオペラ興業会社の「王室音楽アカデミー」の設立者のひとりであり、その支配人でもあった[4]。ハイデッガーはアレッサンドロ・スカルラッティジョヴァンニ・バッティスタ・ボノンチーニゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルのオペラを上演し、ヘンデルとは友人になった[1]

王室音楽アカデミーは1728年に倒産したが、翌年ハイデッガーはヘンデルと組んでアカデミーを復活させた[5]。ヘイマーケット劇場は5年間の契約でアカデミーに貸与されたが、1734年に契約期間が終了すると、ハイデッガーはヘンデルのライバルの貴族オペラに劇場を貸し与え、ヘンデルは新設のコヴェント・ガーデン劇場に移らざるを得なかった[6][7]。1737年に貴族オペラが倒産すると、ハイデッガーは再びヘンデルと手を組んでオペラを上演した[8]ウィリアム・ホガースによる仮面舞踏会の風刺画。「才能あるH----r氏によって発明された」と書かれている

ハイデッガーはまたヘイマーケット劇場での仮面舞踏会の開催によっても有名になった。仮面舞踏会はロンドンで大流行したが、下品でふしだらとされて当時のロンドン大司教エドモンド・ギブスンから批判をあびた。しかしハイデッガーは意に介さなかった[9]。ハイデッガーは仮面舞踏会で年に2000ポンド以上の収益をあげていたという[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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