ジョン・サーティース
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ジョン・サーティース
John Surtees
CBE
ブランズハッチでのサーティース (1964年イギリスGP
生年月日 (1934-02-11) 1934年2月11日
イングランド
同・サリー州タッツフィールド
死亡年月日 (2017-03-10) 2017年3月10日(83歳没)
イングランド
同・ロンドン・トゥーティング

レースでの経歴
ロードレース世界選手権
活動期間1952-1960
初レース1952年アルスターGP (500cc)
最終レース1960年イタリアGP (500cc)
初勝利1955年アルスターGP (250cc)
最終勝利1960年イタリアGP (500cc)
チームノートン, MVアグスタ
チャンピオン350cc - 1958,1959,1960
500cc - 1956,1958,1959,1960

出走回数勝利数表彰台PPFL総ポイント
513845N/A34350


ジョン・サーティース
John Surtees
基本情報
国籍 イギリス

基本情報
F1での経歴
活動時期1960-1972
所属チーム'60 ロータス
'61,'66 クーパー
'62 ローラ
'63-'66 フェラーリ
'67-'68 ホンダ
'69 BRM
'70 マクラーレン
'70-'72 サーティース
出走回数113 (111スタート)
タイトル1 (1964)
優勝回数6
表彰台(3位以内)回数24
通算獲得ポイント180
ポールポジション8
ファステストラップ11
初戦1960年モナコGP
初勝利1963年ドイツGP
最終勝利1967年イタリアGP
最終戦1972年イタリアGP
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ル・マン24時間での経歴
年1963-1965,1967
チームスクーデリア・フェラーリ
ローラ・カーズチーム・サーティース
最高位3位 (1964)
クラス優勝0

ジョン・サーティース(John Surtees, CBE 1934年2月11日 - 2017年3月10日)は、イギリスイングランド)出身のレーシングドライバー。2輪(モーターサイクル)のロードレース世界選手権(WGP)と、4輪のフォーミュラ1(F1)の両方で世界チャンピオンになった唯一のレーサーである(2020年現在)。「ビッグ・ジョン」「怖いもの無しのジョン」の異名を取る。日本では「ホンダF1」草創期にドライバーを務めた。
2輪での経歴2輪時代(1960年)

サーティースのレース歴は、父親が操縦するサイドカーのパッセンジャー(助手)役からスタートしたと言われる。やがてソロ(サイドカーなしの2輪車)に転向。ビンセントでの活動を経てノートンに移籍し、10代でWGPに進出する。

1956年には母国のノートンからイタリアのMVアグスタに移籍しWGPに参戦。350ccクラスで1958年から1960年まで、最高峰の500ccクラスで1956年と1958年から1960年までチャンピオンになり、WGPで計7つの世界タイトルを獲得している。

イタリア語を習得したサーティースは、「イル・グランデ・ジョン」と呼ばれ人気を博した。
4輪での経歴

1950年代には2輪で無敵といえる活躍をしたものの、20代半ばの若さで4輪に転向する。1960年からはロータスでF1にレギュラードライバーとして参戦。しかし、同じチームにジム・クラークがいたことから、1961年にはヨーマン・レーシングへ移籍し、プライベーターとして健闘した。

1963年にフェラーリ入りし、技術者的センスを活かしてマシンの開発に貢献。ドイツGPでF1初勝利を挙げる(チームにとって1年半ぶりの勝利でもあった)。

1964年もフェラーリからF1に出場し、同じイギリス人のクラークやグラハム・ヒルと激しい争いを繰り広げ、F1世界チャンピオンの座に着いた。最終戦の残り2周でクラークがマシントラブルに見舞われるという幸運もあり、ワールドタイトル獲得は劇的なものになった(2位ヒルとのポイント差は僅か1点)。勇敢なサーティースはフェラーリの総帥エンツォ・フェラーリに気に入られたが、チーム内のイタリア国粋勢力に疎まれ孤立することになったと言われる。

1965年はF1のチャンピオン防衛に失敗し、北米のスポーツカーレースに参戦中に骨折する。ホンダ・RA301を駆るサーティース(1968年ドイツGP)

1966年のベルギーGPで勝利した直後ル・マン24時間レースに参加したが、予選前にドライバーのエントリーをめぐってチーム監督のエウジェニオ・ドラゴーニと衝突し、そのままフェラーリを去ることになった[1]。この年から開幕した北米のカナディアン-アメリカン・チャレンジカップ (Can-Am) では、ローラのマシンを駆って初代チャンピオンを獲得した。

1967年からはホンダF1に移籍。マシンのエンジンは強力だが車体が重いため、ローラとホンダとの仲介役になり、1967年シーズン途中でローラのシャシーにホンダのエンジンを積んだホンダ・RA300(通称「ホンドーラ」)が製作された。サーティースは1967年のイタリアGPでRA300に乗り、ホンダ第1期F1活動の最後の1勝を挙げた。

1970年に自分のF1チームサーティースを立ち上げオーナードライバーとして参戦したが、1970年代前半にドライバー業はほぼ引退した。チーム・サーティースも1978年をもってF1から撤退した。
引退後晩年期 - 2011年グッドウッド・フェスティバルにて

レース引退後はホンダ車の販売ディーラーを経営していた時期もある。

2003年にはMotoGP殿堂入りを果たした。

運転技術が高いこととメカニズムに精通していることが買われ、クラシックマシンのイベントで往年の名車のライダー/ドライバーに起用されることが多い。サーティース自身がクラシックマシンの愛好家でもあり、自ら整備したビンセントなどに乗りクラシックイベントに積極的に参加している。欧米のイベントだけではなく、日本のクラシックイベントにも度々参加している。

2008年には、新たにロードレース世界選手権・GP125クラスへの参入を目指すチームとして「マクストラ・レーシング」(Maxtra Racing)を設立した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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