ジョン・サイモン_(初代サイモン子爵)
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イギリス政治家初代サイモン子爵
ジョン・サイモンJohn Simon
1st Viscount Simon
1931年ごろのサイモン
生年月日1873年2月28日
出生地イギリス・マンチェスター市、モス・サイド(英語版)
没年月日 (1954-01-11) 1954年1月11日(80歳没)
所属政党自由党
称号初代サイモン子爵
法務次官(英語版)
内閣第1次ハーバート・ヘンリー・アスキス内閣
在任期間1910年10月7日 - 1913年10月19日
法務長官
内閣第1次アスキス内閣
在任期間1913年10月19日 - 1915年5月25日
内務大臣
内閣第2次アスキス内閣
在任期間1915年5月27日 - 1916年1月12日
外務大臣
内閣マクドナルド挙国一致内閣
在任期間1931年11月5日 - 1935年6月7日
内務大臣
内閣第1次スタンリー・ボールドウィン内閣
在任期間1935年6月7日 - 1937年5月28日
その他の職歴
大蔵大臣
1937年5月28日 - 1940年5月10日
大法官
1940年5月10日 - 1945年7月27日
貴族院議員
1940年5月20日 - 1954年1月11日
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初代サイモン子爵ジョン・オールスブルック・サイモン(: John Allsebrook Simon, 1st Viscount Simon, GCSI, GCVO, OBE, PC1873年2月28日 - 1954年1月11日)は、イギリスの政治家・貴族。

自由党の政治家だったが、自由党がアスキス派とロイド・ジョージ派に分裂するとアスキス派に属し、1928年のアスキスの死後にはその派閥の指導者となった。保護貿易主義に傾いていき、保守党と近しい存在になっていった。1932年には自由党が参加していたマクドナルド挙国一致内閣に残留するかどうかを巡って自由貿易主義者の自由党党首サミュエルと対立した。政権残留派を率いて挙国派自由党(英語版)を立ち上げ、マクドナルド挙国一致内閣とその後の保守党政権で重要閣僚職を歴任した。
経歴1916年ごろのサイモン

1873年2月28日会衆派牧師エドウィン・サイモンとその妻ファニー(旧姓オールスブルック)の唯一の息子として生まれる[1][2]

1906年1月にウォルサムストー選挙区(英語版)から選出されて庶民院議員となる[3]1918年から議席を失ったが、1922年にスペン・バレー選挙区(英語版)から選出されて再び庶民院議員となり、叙爵されて貴族院議員に転じる1940年まで在職した[4]

自由党政権アスキス内閣下の1910年に法務次官(英語版)、1913年に法務総裁、1915年に内務大臣に就任した[3][5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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