ジョン・コンスタブル
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ジョン・コンスタブルJohn Constable
ダニエル・ガードナー(英語版)による肖像画(1796年)
誕生日 (1776-06-11) 1776年6月11日
出生地 イングランド サフォーク州イースト・バーゴルト(英語版)
死没年1837年3月31日(1837-03-31)(60歳)
死没地 イングランド ロンドン
国籍 イギリス
運動・動向ロマン主義
芸術分野風景画
代表作『乾草の車
『デダムの谷(英語版)』
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ジョン・コンスタブル(John Constable RA ([?k?nst?b?l, ?k?n-][1]1776年6月11日 - 1837年3月31日)は、ロマン派の伝統を受け継ぐ19世紀イギリス画家である。カンスタブルと表記することもある。

同時代のウィリアム・ターナー(コンスタブルより1歳年長[2])とともに、19世紀イギリスを代表する風景画家である。西洋絵画の歴史においては神話、聖書のエピソード、歴史上の大事件や偉人などをテーマとした「歴史画」が常に上位におかれ、「風景」は歴史画や物語の背景としての意味しか持っていなかった。17世紀オランダでは風景画が発達したが、ヨーロッパ全土で風景画が市民権を得るにはフランスバルビゾン派、イギリスのターナーやコンスタブルが登場する19世紀を待たねばならなかった。
若年期『ジョン・コンスタブル、自画像』(John Constable, Self-portrait)(1806年、紙に鉛筆)テート・ギャラリー所蔵。鏡に映る自分を描いた、コンスタブル自身による唯一の自画像[3]

ジョン・コンスタブルは、イングランドサフォーク州のストアー川沿いの村、イースト・バーゴルト(英語版)で、ゴールディング・コンスタブル(Golding Constable)とアン・コンスタブル(Ann Constable)(旧姓ワッツ(Watts))の間に生まれた。父は裕福なトウモロコシ商人で、イースト・バーゴルトとエセックスに製粉所を所有していた。ゴールディングは、小型船「テレグラフ」を所有し、ストアー河口のミストリー(英語版)に係留して、トウモロコシをロンドンに輸送していた。ゴールディングは、ロンドンの紅茶商人エイブラム・ニューマン(英語版)とは従兄弟にあたる。ジョンは次男だったが、兄は知的障害があり、ジョンは父の事業を継ぐことを期待されていた。ラベンハム(英語版)の寄宿学校に短期間入学した後、デダム(英語版)のデイ・スクール(英語版)に入学した。学校卒業後は一時的に家業を手伝ったが、最終的には弟のエイブラムが製粉所の経営を引き継ぐことになった。

若い頃、コンスタブルはサフォークやエセックスの田園地帯をスケッチする旅に出た。その結果、彼の作品の大部分は風景を題材としたものとなった。この旅についてコンスタブルは後に「私を画家にしてくれた。感謝している。製粉所の堰などから漏れる水の音、柳、古くて腐った板、ぬるぬるした柱、煉瓦造り、私はこういうものが大好きだ」と述べている[4]。コンスタブルはコレクターのジョージ・ボーモント(英語版)に、彼が大事にしているクロード・ロランの『ハガルと天使』を見せてもらい、インスピレーションを受けた。その後、ミドルセックスの親戚を訪ねた際に、プロの画家のジョン・トーマス・スミス(英語版)に絵についてアドバイスを受けたが、スミスはプロとして絵を描くのではなく、家業を継ぐことを勧めた。『デダムの谷(英語版)』(1802年)ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵

1799年、コンスタブルは父を説得して美術の道に進むことを許してもらい、父からはわずかなお金をもらった。ロイヤル・アカデミー附属美術学校に見習生として入学し、翌年には正規の学生となった。この時期、コンスタブルが特に感銘を受けたのは、トマス・ゲインズバラ、クロード・ロラン、ピーテル・パウル・ルーベンスアンニーバレ・カラッチヤーコプ・ファン・ロイスダールなどの作品である。

1802年、コンスタブルは王立陸軍大学(英語版)(サンドハースト王立陸軍士官学校の前身)の製図師の職を断った。これは、当時ロイヤル・アカデミーの会長だったベンジャミン・ウエストが、この職を受けることはコンスタブルのキャリアの終わりを意味すると助言したことによる。その年、コンスタブルはジョン・ダンソーンに宛てた手紙の中で、プロの風景画家になるという決意を次のように綴っている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}この2年間、私は絵を追い求め、間接的に真実を探していました。私は自分が出発したときのような高い心で自然を表現しようとはせず、むしろ自分の技を他の人の作品のように見せようとしてきました。自然画家のための余地は十分にあります。現代の大きな悪癖は、真実を超えた何かをしようとする華麗さです[5]

コンスタブルの初期の作風は、光、色、タッチの新鮮さなど、後の成熟期の作品に見られる多くの特色を備えており、彼が学んだ古い巨匠たち、特にクロード・ロランの影響を受けた構成が見られる[6]。コンスタブルがよく描いていた日常生活の風景は、荒涼とした風景や廃墟などのロマンチックなイメージが求められていた時代には流行らないものだった。コンスタブルは時折、遠方にも足を伸ばした。

1803年には、ロイヤル・アカデミーに出品している。同年4月には、中国に向かうインディアマンの「クーツ」号にロンドンからディール(英語版)まで1か月乗船し、イギリス南東部の港を訪れた。

1806年、コンスタブルは2か月間の湖水地方の旅に出た[7]。コンスタブルは、友人で伝記作家のチャールズ・レスリーに対し、山の孤独感が精神を圧迫すると語った。レスリーは次のように書いている。彼の性格は独特の社会性を持っており、どんなに壮大な風景であっても、人との関わりがないと満足できない。彼は村、教会、農家、コテージを必要としていた[8]

コンスタブルは、冬はロンドンで過ごし、夏は故郷イースト・バーゴルトで絵を描くという生活を送っていた。1811年には、ソールズベリージョン・フィッシャーのもとを訪問した。このソールズベリーの大聖堂とその周辺の風景は、コンスタブルの最高傑作のいくつかにインスピレーションを与えた。『ワイブンホー・パーク(英語版)』(1816年)ワシントンD.C.・ナショナル・ギャラリー所蔵

生活費を稼ぐために肖像画も描いており、自身はつまらないものと述べていたが、多くの素晴らしい肖像画を残している。また、時折、宗教画も描いているが、ジョン・ウォーカーは「コンスタブルの宗教画家としての能力のなさを大げさに言ってはいけない」と述べている[9]

コンスタブルの別の収入源は、カントリーハウスの絵だった。1816年、フランシス・スレーター=リバウ少将の依頼を受け、彼の別荘であるエセックス州ワイブンホー・パークの絵(英語版)を描いた[10]。少将は、アレスフォード・ホールの敷地内にあるフィッシング・ロッジを描いた小さな絵も依頼しており[10]、この絵は現在、ビクトリア国立美術館に所蔵されている[11]。コンスタブルは、これらの依頼で得たお金を、マリア・ビックネルとの結婚費用に充てた[10]
結婚コンスタブルによるマリア・ビックネルの肖像画(1816年)テート・ブリテン所蔵


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