ジョン・キング・フェアバンク
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ジョン・キング・フェアバンク人物情報
生誕 (1907-05-24)
1907年5月24日
アメリカ合衆国 サウスダコタ州ヒューロン
死没1991年9月14日(1991-09-14)(84歳)
出身校ウィスコンシン大学マディソン校ハーバード大学オックスフォード大学ベリオール校清華大学
学問
研究分野歴史学中国学
研究機関ハーバード大学
学位博士
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ジョン・キング・フェアバンク(John King Fairbank、1907年5月24日-1991年9月14日)は、アメリカの歴史学者中国学者(中国近代史専攻)、ハーバード大学名誉教授。中国名は「費正清」。
略歴

1907年、サウスダコタ州生まれ。ウィスコンシン大学マディソン校ハーバード大学で学び、ローズ奨学生としてオックスフォード大学ベリオール校に留学。滞在中、イギリス帝国史から中国研究に関心を移し、1932年に当時中華民国であった北京に渡り、清華大学で学んだ。1936年、オックスフォード大学に学位論文を提出して博士号を取得。その後は、1977年までハーバード大学中国史を教えるとともに、エドウィン・O・ライシャワーとともに東アジア研究の教育課程の整備に尽力した。1968年、アメリカ歴史学会会長に選出された。
経歴
学歴と初期のキャリア

フェアバンクは1907年5月24日にサウスダコタ州ヒューロンに生まれた[1]。彼はスーフォールズ高校、フィリップス・エクセター・アカデミーウィスコンシン大学マディソン校ハーバード・カレッジオックスフォード大学ベリオール・カレッジなどで教育を受けた。1929年にハーバードをスンマ・クム・ラウデの成績で卒業し、イギリス帝国史を研究するためにローズ奨学生としてオックスフォードに留学した。オックスフォードでフェアバンクは清朝の文書が公開されることを知り、中国の海関制度の優れた専門家で、のちにフェアバンクの指導教授となるH・B・モースに教えを請うた。大志をいだく若き研究者はこうして1932年に博士論文の調査のため北京に渡ることになった。北京では卓越した歴史家である?廷黻の指導のもと清華大学で研究に取りくんだ。フェアバンクはこの?廷黻から新規に利用できる外交文書の調査や、中国学界の視点を学ぶことができた。なお、この時期、フェアバンクはウィルマ・キャノンと中国で結婚している。彼女もまたこの地で中国美術に関する自身の研究を進めている。1936年、オックスフォード大学は彼には博士号を授与した。彼の博士論文は修正され、1953年に『中国沿海部における貿易と外交――条約港の開放、1842年-1854年』として出版された[2]

フェアバンクは1936年にハーバードに戻り、中国史を教える職を得た。彼はハーバードにおけるこの分野で初めての専任教員であった。彼とエドウィン・O・ライシャワーは共同して中国と日本、のちには朝鮮東南アジアも網羅した通年の入門授業を行った。このコースは「田んぼ (Rice Paddies)」講座と知られるもので、のちに影響力をもつようになった『東アジア――偉大なる変容』(1960年)と『東アジア――近代的な変容』(1965年)の二著として結晶した。
戦争への参加と「中国の喪失」論争

1941年太平洋戦争がはじまると、フェアバンクは軍務につくことになり、戦略情報局(OSS)や戦時情報局 (OWI)などの仕事で中国国民党政府の臨時首都があった重慶にも派遣されている。この地でフェアバンクは他の外国人たちが感じたように、?介石政権の腐敗ぶりをみて、国民党に対する印象をかなり悪くした。

戦後ハーバード大学にもどってくると、フェアバンクはアジア研究の修士課程を開設した。当時のハーバードはアメリカでアジア研究プログラムを有する主要な大学のひとつだった。ハーバードの地域研究は個々の学問領域にとらわれることなく、ジャーナリストや政府職員など学界以外で活動するひとたちのための訓練もほどこしていた。こうした幅広いアプローチは、フェアバンクの戦中の中国体験ともあいまって、『アメリカと中国』として結実した。本書は1958年と70年にも版を重ね、学生だけでなく、一般のひとたちにもこの分野の学問成果を提供してきた。1960年代には台北の中華語文研修所で在外研究し、中国語を学んでいる[3] 。『アメリカと中国』は、1972年のニクソン訪中以前から、米中双方のリーダーたちに読まれていた[4]

フェアバンクはいわゆる「中国派 (China Hands)」で、毛沢東中国共産党の勝利を予想し、アメリカと新政府との国交樹立を主張してきた。フェアバンクの考えではこれこそがアメリカの国益にかなうものであったが、多くのアメリカ人たちは共産主義ソ連の影響を広め、同盟者を売り渡した犯人として中国派(チャイナ・ハンズ)を非難した。1949年には共産主義に対して「弱腰」だとフェアバンクは攻撃され、日本訪問のビザが下りないことさえあった。皮肉なことに、1949年以後にアメリカから中国へ戻ったフェアバンクの友人や同僚たちは、彼とは逆にのちのち「親米的」だといって非難されることになった。中国共産党がより厳格な共産主義に走ったとき、費孝通や陳翰笙はそうした攻撃の対象となった[5]
中国研究の発展

フェアバンクは1977年に退職するまでハーバードで教えた。彼は学界と一般向けの両方で中国に関する無数の著作を発表している。これらの多くは学界を超えて、広い範囲のひとたちに読まれた。彼はまた1953年には博士論文を拡大して、『中国沿海部における貿易と外交――条約港の開放、1842年-1854年』を刊行している。

ハーバードはアメリカにおける東アジア地域研究の頂点に君臨するようになった。こうした達成はフェアバンクの活動のなせるわざわざであった。例えば彼は東アジア研究センターを開設し、その所長を1955年から73年まで務めた。フェアバンクの退職後、このセンターは彼を記念して「フェアバンク中国研究センター」に改称された[6]

フェアバンクは多くの大学院生たちを支援する研究資金を獲得し、ハーバードで数多くの有力な中国史家を育て、彼らをアメリカ内外の大学に送りこんだ。彼は在外研究をするために世界中からハーバードにやってきた研究者たちを歓迎し、研究資金の斡旋もした。たくさんの学者を集めた学術会議を開催し、その成果を編集して、世に問うた。彼は権威ある「ハーバード東アジア叢書」を実現させ、学生たちが終身雇用資格を得るために必要な博士論文出版の機会を用意した。彼は甘くはないが、同時に支援を惜しまない編集者であった.[7]。フェアバンクは同僚のライシャワー、アルバート・クレイグとともに『東アジア文明の歴史』という圧倒的な影響力をもった教科書も執筆している。彼はジャーナリストや政府高官などを訓練し、また対中政策に関して政府とともに働くことで、ワシントン・D・Cの有力者たちと強い縁故を築いていた。
ケンブリッジ中国史詳細は「ケンブリッジ中国史」を参照


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