ジョン・カルフーン
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ジョン・カルフーン
John Calhoun

生年月日 (1782-03-18) 1782年3月18日
出生地 アメリカ合衆国サウスカロライナ州アブビル
没年月日1850年3月31日(1850-03-31)(68歳)
死没地 アメリカ合衆国ワシントンD.C.
出身校イェール大学
タッピング・リーヴ・ロースクール
所属政党民主党 (1839年 - 1850年)
配偶者フローリデ・カルフーン
宗教ユニテリアン
サイン
第7代 アメリカ合衆国副大統領
在任期間1825年3月4日 - 1832年12月28日
元首ジョン・クィンシー・アダムズ
アンドリュー・ジャクソン
第16代 アメリカ合衆国国務長官
在任期間1844年4月1日 - 1845年3月10日
元首ジョン・タイラー
第10代 アメリカ合衆国陸軍長官
在任期間1817年10月8日 - 1825年3月4日
元首ジェームズ・モンロー
アメリカ合衆国上院議員
選挙区サウスカロライナ州
在任期間1845年11月26日 - 1850年3月31日
在任期間1832年12月29日 - 1843年3月4日
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ジョン・コールドウェル・カルフーン(英語: John Caldwell Calhoun [kal?hu?n][1], 1782年3月18日 - 1850年3月31日)は、アメリカ合衆国19世紀前半の政治家民主共和党所属。強力な知性を持つカルフーンは当時のあらゆる問題に対して雄弁に語ったが、しばしばその立場を変えることがあった。その政治経歴は国家主義者、保護貿易の提唱者として始められた。その後彼は立場を州の権限小さな政府、無効化(英語版)、および自由貿易に切り替えた。彼はその気性の激しさ、奴隷制度の擁護、少数派の権利拡大、南部の合衆国からの脱退に関してよく知られる。
概要

自由の原則に専念し、腐敗を恐れるカルフーンは、奴隷制度と少数派の権利承認を含む共和主義の再検討によって、政治的理論家としての評判を確立した。多数決原理に対して少数派の権利を保護するために、彼は「並列の大多数」と呼ぶ攻撃的な提案を行った。民主主義をますます信用せず、彼はサウスカロライナ州において第二政党制の働きを最小にした。カルフーンによる奴隷制度の防衛は次第に消滅したが、彼の競合的多数(英語版)の概念は、アメリカの価値体系に取り込まれていった[2]

彼はサウスカロライナ州選出上院、下院議員、国務長官陸軍長官、そして第7代副大統領を務めた。彼は民主党に所属したが、ホイッグ党をもてあそんで同党から1824年1844年に大統領選に出馬しようとした。「タカ派」として、米英戦争に際して彼はイギリスからアメリカの名誉を守れ、と議会で扇動した。ジェームズ・モンロー内閣での陸軍長官として彼は陸軍省を再編成、省を運営する強力で永久的な官僚制度を築き上げ近代化した。

カルフーンは南北戦争のおよそ10年前に死去したが、彼は1860年から61年にかけての南部の合衆国脱退に大きく影響を与えた。自らの信念を守ろうとする決意から、「鋳鉄人 cast-iron man」の愛称で呼ばれたカルフーンは、州の権利と無効化を支持した。彼は奴隷制度の率直な支持者であり、同制度を「必要悪」としてよりむしろ「現実的な利益」として守ろうとした[3]。彼による奴隷制度への修辞的な防衛は、北部で部分的に上っている廃止論者の感情に直面し、南部の脱退による脅威を拡大する役割を果たした。

カルフーンはダニエル・ウェブスターヘンリー・クレイと共に「三巨頭 Great Triumvirate」「不滅の三人組 Immortal Trio」と呼ばれた。1957年に上院委員会は、5人の最も偉大な上院議員として、ヘンリー・クレイ、ダニエル・ウェブスター、ロバート・ラ・フォレットロバート・タフトと共にカルフーンを選定した[4]
生い立ち1822年のポートレイト、40歳時カルフーンの妻、フローリデ・カルフーンはサウスカロライナ州の上院議員、弁護士のジョン・E・カルフーンの娘であった

ジョン・カルフーンは1782年3月18日に、パトリック・カルフーンと妻のマーサ(旧姓コールドウェル)の4番目の子どもとして生まれた。父親はドニゴール県からのスコティッシュ=アイリッシュ系移民であり、サウスカロライナに入植、同地でマーサと結婚した[5]

カルフーンが17歳のときに父親が病気になり、彼は学校を辞めて家族の農場で働くこととなった。後に兄弟からの金銭的援助を得て彼は学問の道に戻り、1802年イェール大学に入学した。タッピング・リーヴ・ロースクールで法律を学び、カルフーンは1807年にサウスカロライナ州で法曹界入りした。
結婚と家族

1811年1月にカルフーンはいとこ半のフローリデ・ボノー・カルフーンと結婚した[6]。夫妻は18年以上の間に10人の子をもうけた。3名は幼年時に死去した。子どもは 1. アンドリュー・ピケンズ・カルフーン (1811-1865), 2. フローリデ・ピュア・カルフーン (1814-1815), 3. ジェーン・カルフーン (1816-1816), 4. アンナ・マリア・カルフーン (1817-1875), 5. エリザベス・カルフーン (1819-1820), 6. パトリック・カルフーン (1821-1858), 7. ジョン・コールドウェル・カルフーン・ジュニア (1823-1855), 8. マーサ・コーネリア・カルフーン (1824-1857), 9. ジェームズ・エドワード・カルフーン (1826-1861), 10. ウィリアム・ラウンズ・カルフーン (1829-1858) 。カルフーンの妻フローリデは、副大統領職2期目に起きたペティコート事件(英語版)の中心人物であった。彼女は米国聖公会の熱心な信者で、カルフーンはしばしば教会に同伴した。しかしながらカルフーンは決して信者にはならず、また滅多に宗教について言及しなかった。幼年期は長老派教会の信者であったが、歴史家は、カルフーンがトーマス・ジェファーソンによって代表される非公式のユニテリアンに最も近かったと考える[7]
タカ派

カルフーンは「非常に神経質で非常に知的」[8]であり、ヘンリー・クレイやアンドリュー・ジャクソンとは異なって、カリスマや魅力の面で(子どもや女性に応対する時を除いて)有名では無かった[9][10]。しかし彼は輝かしい知性を持ち、有能な演説者で力量あるオーガナイザーであった。1810年に議会に選任されると、すぐに議長のヘンリー・クレイやサウスカロライナ州選出のウィリアム・ラウンズ、ラングドン・シェブスを含む主戦論者と同盟し、「タカ派」のリーダーとして米英戦争の開戦を煽動した。彼らはナポレオン戦争におけるヨーロッパの複雑さを無視し、ニューイングランド人の猛烈な反対を払いのけた。そして、アメリカの名誉と共和制の価値を守るためにイギリスとの開戦を要求した[11]。クレイはカルフーンを国際関係委員会の議長代理に指名した。1812年6月3日に委員会は宣戦布告を要求した。これによってカルフーンの名声は全国的なものとなった。米英戦争が開戦するとイギリス軍は海上封鎖を行い、準備不足であったアメリカにとって戦況は思わしく展開しなかった。幾度かのカナダ侵攻への試みは失敗に終わったものの、カナダ西部を制圧したアメリカ軍は、カナダとアラバマにおける戦いで敵対的なインディアンの部族を退けた。


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