ジョン・オーブリー(John Aubrey、1626年3月12日 - 1697年6月7日)はイングランドの好古家(antiquarian、分かりやすく言えば古代史/考古学ファン)で作家。 Brief Lives (『名士小伝』)と呼ばれる伝記短編集の作者として有名であり、ストーンヘンジに後にオーブリーホールと呼ばれることになる穴があることを発見したことでも知られている。 ウィルトシャーのマームズベリー近郊で、比較的裕福な家庭に生まれた。祖父アイザック・ライトはサマセットにある Lytes Cary
目次
1 来歴
2 その後
3 手法
4 晩年と業績
5 出典
6 参考文献
7 外部リンク
来歴
その後 エイヴバリーの南の内側の環の一部
人間的魅力、寛大さ、熱心さを備えていたオーブリーは、当時の最高の作家、科学者、政治家、貴族らと知り合いになり、同時に本屋、商人、王室のお針子、数学者、機械工など下層階級の人々とも親しく交流を持った。彼は記憶力はよいほうではないと述べており、1640年代ごろから科学的観察や友人のアイデアや古代遺跡などについてメモをとる癖をつけていた。1650年代には科学者の生涯を文章化し始めた。1660年、ウィルトシャー全体の調査を共同で行ってくれないかと同地の友人何人かに頼んだ。その依頼に応えた友人はいなかったが、オーブリーは2巻の著作集 Wiltshire Antiquities(ウィルトシャーの遺跡)をまとめた(未完)。これにも伝記的著作が含まれている。オーブリーの友人で好古家仲間のアンソニー・ウッドはオーブリーについて、去りゆく客か誰かにインタビューするために急いで階段を下りようとして転げ落ち、首の骨を折ることになるだろうと予言している。オーブリーは政治には無関心な王政支持者で、空位期間に特有なイノベーションを享受すると同時に、内戦や宗教改革で伝統が破壊され古代の建造物が破壊されることを嘆いていた。空位期間のヘレフォードシャーで王の健康を祈って乾杯する一方で、同じような熱心さで『オセアナ』の作者ジェームズ・ハリントンが創設したロータ・クラブでの会合にも出席している。
1663年、オーブリーは王立協会の会員となった[1]。父から相続した債務によって次々に訴訟を起こされて不動産を失っていき、1670年には先祖代々の家である Easton Piers まで失った。これ以降、オーブリーは数多の友人の世話になって生活するようになった。特にウィルトシャーの准男爵ジェームズ・ロング2世に世話になっている。1667年、アンソニー・ウッドと知り合いになり、ウッドが自身の著作 Athenae Oxonienses のための材料を集め始めたとき、オーブリーは情報収集を手伝うことを申し出た。オーブリーは独特な略式で書簡風のメモを次々とウッドに送った。これが Brief Lives へと発展していった。
手法 ストーンヘンジ