ジョン・オーガストス・ローブリング(John Augustus Roebling、出生時はドイツ語表記でJohann August Robling、発音ではヨーハン・アウグスト・レーブリング。1806年6月12日-1869年7月22日)は、ドイツ東部のテューリンゲン州ミュールハウゼン・イン・テューリンゲン(Muhlhausen/Thuringen)生まれの土木技術者である。吊り橋に使用するワイヤの開発やアメリカ合衆国のブルックリン橋の設計で知られる。 若き日のローブリングはフルートやピアノを演奏するなど音楽に親しみ、バッハの楽曲やゲーテの詩を好んでいた。同様に絵画にも芸術的な才があった。9歳の時、ローブリングは模型の橋を作ったが、これは後年のブルックリン橋と同じ形態のものであった。 ローブリングがミュールハウゼンで育った時期というのは、上級生たちが制服に身を包み、マスケット銃を肩に掛け、ナポレオンの軍隊に立ち向かっていった時期であった。そこには、いまでも彼が設計した橋が残っているほか、ミュールハウゼンのゴシック建築は、ローブリングの美的感覚や建築は永続的であるべしとする感覚を養った[1]。 ローブリングはエアフルトのギムナジウムに通い、14歳で建築修士の試験をパスした。この知性を見抜いた母親・フレデリケ・ドロテア・ローブリングは、彼をベルリンの王立ポリテクニックに進学させた。彼は建築と工学をRabeとSluterに、橋梁建築と基盤建築をDietleynに、水理学をEytelweinに、それぞれ学んだ。言語や哲学も習得し、土木工学の学位を得て1826年に卒業。さらにドイツの有名な哲学者、ヘーゲルにも学び弟子となる。 1831年5月22日、ローブリングは兄弟のカール、40人の友人らとともにドイツを去った。彼は大きな橋を架けたいと思っていたが、当時のドイツでは不可能であった[2]。プロイセンの社会では、経済が流動的であり、キャリアを積むことが非常に困難であったのである。この状況は1815年まで続いたナポレオン戦争でもたらされたものであり、政情不安が続いていた。ローブリングら一行は大西洋を渡り、1831年10月28日、 アメリカ合衆国のペンシルベニア州バトラー郡に1582エーカー(6.4平方キロメートル)の土地を購入。サクソンバーグと呼ばれるそこに入植した。 ローブリングがアメリカに渡ったのは、適切な時期ではなかった。その1年前にアンドリュー・ジャクソン大統領が、道路、鉄道、運河の建設に予算1億ドルを認可していた。当時のアメリカは後年言われるところのマニフェスト・デスティニーの時代であり、西部に進出していた時期であった。アメリカ東部の産業のハブとフロンティアとを結ぶ交通網の整備が、国家的にも民衆的にも関心事であった。手始めに、ローブリングはエンジニアとしての仕事ではなく、生きるために耕作を始めた。 5年後、テーラーの娘であったジョアンナ・ハーティング・ローブリングと結婚。10年間で9人の子供に恵まれた。 ローブリングにとって農作業は納得のいく仕事ではなかった。カールが死去し、一方、第一子が誕生した1837年、彼はエンジニアとしての仕事に戻った。 ローブリングがアメリカで初めて手がけたエンジニアとしての仕事は、河川改良と運河の建設であった。続く3年間、ペンシルベニア州 ハリスバーグとピッツバーグとをアレゲーニー山脈を越えて結ぶ鉄道建設に従事。1840年、吊り橋技術者のチャールズ・エレット・ジュニア
青年期まで
学問的裏付け
ヨーロッパからの脱出
キャリアスタート
長男 - ワシントン・オーガストス・ローブリング(1837-1926)
長女 - ローラ・R・メスフェッセル(1840-1873)
次男 - フェルディナンド・ローブリング
次女 - エルビラ・R・スチュワート(1844-1871)
三女 - ジョセフィーヌ・R・ジャービス(1847)
三男 - チャールス・ギュスターブス・ローブリング(1849-1918)
四男 - エドムンド・ローブリング(1854-1930)
五男 - ウィリアム・ローブリング(1856-1860)
四女 - ハナ・ローブリング(幼くして死去)