ジョン・オブ・ランカスター
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ジョン・オブ・ランカスター
John of Lancaster
Duke of Bedford
ベッドフォード公爵

在位1414年5月16日 - 1435年9月14日
続柄ヘンリー4世の三男

称号ケンダル伯爵(英語版)、リッチモンド伯爵ガーター勲章ナイト(KG)
出生1389年6月20日

死去 (1435-09-14) 1435年9月14日(46歳没)
フランス王国ルーアン
埋葬 フランス王国ルーアン大聖堂
配偶者アンヌ・ド・ブルゴーニュ
 ジャケット・ド・リュクサンブール
家名ランカスター家
父親ヘンリー4世
母親メアリー王妃
役職フランス摂政、イングランド護国卿、イングランド海軍司令長官
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ベッドフォード公爵ジョン・オブ・ランカスター(英語: John of Lancaster, Duke of Bedford, KG1389年6月20日 - 1435年9月14日)は、イングランドランカスター朝の王族。

イングランド王ヘンリー4世の第3王子。甥にあたるイングランド王兼フランスヘンリー6世のフランス摂政として百年戦争後期のイングランド軍の総指揮をとった。
経歴
生い立ち

1389年6月20日に後にイングランド王ヘンリー4世となるダービー伯爵ノーサンプトン伯爵ヘンリー・ボリングブルックとその妻メアリー・ド・ブーンの三男として生まれる。兄にイングランド王となるヘンリー5世クラレンス公となるトマス、弟にグロスター公となるハンフリーがいる[1]

父がリチャード2世から王位を簒奪して即位した1399年より後にガーター勲章(騎士団)ナイトに叙せられた。1414年5月16日に一代限りの爵位としてベッドフォード公爵とケンダル伯爵(英語版)に叙される。同年11月24日には世襲貴族リッチモンド伯爵に叙された[2]
フランス摂政に就任

若年の頃から戦いに参加しており、1405年にイングランド貴族のノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー、ヨーク大司教リチャード・スクループ、ノーフォーク伯トマス・モウブレーらが父に反乱を起こすと、迎撃に向かった父とウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィルの軍に加わった[3]。兄王ヘンリー5世の治世では1416年5月にイングランドを訪問した神聖ローマ皇帝ジギスムントの出迎え役の1人に選ばれ兄と共にジギスムントを歓迎する一方、8月にはイングランド海軍の指揮を任されフランスへ渡海、イングランドが確保したフランスの都市アルフルール(英語版)の奪還を図ったフランス艦隊と衝突、勝利してアルフルールの救援に成功した[4]。また、1415年からイングランド軍占領下フランスの防衛を任されていた[5]

1422年に兄が崩御すると次の王で甥ヘンリー6世(イングランド王にしてトロワ条約によるフランス王)が幼君であることから、兄の遺言によりベッドフォード公はフランス摂政としてフランス占領地の行政を、弟グロスター公はイングランド国内の行政を執ることになったが、議会はベッドフォード公を護国卿に指名し、グロスター公はベッドフォード公不在時の代理としている[6][7]。しかしベッドフォード公は兄の遺言通りイングランドの政治については弟に任せ、自身はフランス内のイングランド領であるノルマンディーパリイル=ド=フランス)の統治と百年戦争でのイングランド軍の総指揮に集中した[5][8]

1423年にはブルゴーニュ派との同盟関係を強化するため、ブルゴーニュフィリップ3世(善良公)の妹アンヌと結婚した[9]。彼女はイングランドとブルゴーニュ派の間に生じた問題の解決に何度も尽力してくれた[10]。しかし、同時に挙行されたブルターニュジャン5世の弟アルテュール・ド・リッシュモンと善良公とアンヌの姉マルグリットとの結婚を通してブルターニュとも同盟を結ぼうとしたが、ブルターニュ公は中立を貫き、リッシュモンに至っては後にフランスへ走っているためブルターニュの抱きこみに失敗した[11]

1424年ヴェルヌイユの戦いでは自らイングランド軍の陣頭指揮をとり、ブールジュシャルル7世に雇われたスコットランドやロンバルドの傭兵軍団を主力とするフランス軍を破り、イングランド軍の最優勢期を築いた[12][5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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