ジョン・オブ・ゴーント
John of Gaunt
ランカスター公
アキテーヌ公
1593年画
在位ランカスター公:1362年11月13日 - 1399年2月3日
アキテーヌ公:1390年3月2日 - 1399年2月3日
出生 (1340-03-06) 1340年3月6日
フランドル、ヘント、聖バヴォン修道院
死去 (1399-02-03) 1399年2月3日(58歳没)
イングランド王国、レスターシャー、レスター城
ジョン・オブ・ゴーント(John of Gaunt, 1340年3月6日 - 1399年2月3日[1])は、イングランドの王族。イングランド王エドワード3世とフィリッパ・オブ・エノーの成人へ達した3番目の息子。ランカスター家の祖で、ランカスター朝創始者ヘンリー4世の父。エドワード黒太子、クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープは兄、ヨーク公エドマンド・オブ・ラングリー、グロスター公トマス・オブ・ウッドストックは弟。イングランド宗教改革の先駆者ジョン・ウィクリフの保護者として知られる。 1342年にリッチモンド伯に叙爵。1359年、初代ランカスター公ヘンリー・オブ・グロスモントの次女ブランシュと結婚し、ランカスター公となった。結婚によりダービー伯領・リンカーン伯領・レスター伯領も手に入れ富裕になった。ゴーントとは、出生地であるフランドル(現在のベルギー北部)の都市ヘントを指す[2][3]。 1369年から再開した百年戦争において多くの戦いに参加、1371年にイングランド軍を率いていた長兄のエドワード黒太子が病気でフランスからイングランドへ帰国すると指揮を引き継いだが、さほどの戦果は挙げられず1374年に帰国した。国内では老いた父エドワード3世に代わって国政を取り仕切ったが兄と対立、1376年4月の善良議会で専制ぶりを非難され、課税撤回と宮廷腐敗をもたらした大臣達の議会弾劾、父の愛人アリス・ペラーズ
生涯
同年に父も亡くなり甥のリチャード2世が即位すると、補佐として置かれた評議会の筆頭として実権を振るったが、1381年に課税の失策によりワット・タイラーの乱を誘発させた。ランカスター公はスコットランドへ外交活動をしていたため不在だったが、ロンドンの邸宅・サヴォイ宮は反乱軍に破壊され、反乱鎮圧後の1383年にリチャード2世が親政を開始すると権力から遠ざけられた。リチャード2世に後継ぎが生まれなかったため、王位継承を目指してイングランドでもフランスのような男系継承のみを認めるサリカ法を採用することを主張したが容れられず、リチャード2世はランカスター公の兄であるクラレンス公ライオネル・オブ・アントワープの女系の孫であるマーチ伯ロジャー・モーティマーを王位継承者に指名した(ロジャーは1398年に死去)[2][5]。