ジョン・ウォリス
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ジョン・ウォリス
John Wallis
生誕1616年11月23日
イングランド王国ケント、アシュフォード (ケント)(英語版)
死没1703年10月28日(満86歳)
イングランド王国オックスフォードシャーオックスフォード
居住 イングランド王国
国籍 イングランド
研究分野数学
研究機関ケンブリッジ大学ザ・クイーンズ・カレッジ(英語版)
オックスフォード大学
出身校ケンブリッジ大学エマニュエル・カレッジ
博士課程
指導教員ウィリアム・オートレッド
博士課程
指導学生ウィリアム・ブラウンカー
主な業績ウォリス積
無限大を表す記号 ∞
プロジェクト:人物伝
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ジョン・ウォリス(John Wallis、1616年11月23日 - 1703年10月28日)は、イングランド数学者で、微分積分学への貢献で知られている。1643年から1689年までイングランド議会(後には王宮)に暗号研究者として雇われた。また、無限大記号の「」を導入したのもウォリスであるとされている。
生涯

ケント州アシュフォードで、5人兄弟の3番目として生まれた。アシュフォードの学校に通っていたが、ペストが流行したことから1625年にテンターデンの学校に転校した。1631年、フェルステッドの学校で数学と出会った。ウォリスは数学が気に入ったが、当時の数学は学問としては不十分であり、機械的な計算に重きを置いていた[1]

医者になることを周囲に望まれ、1632年にケンブリッジ大学エマニュエル・カレッジに入学[2]。そこで当時議論の的でもあった血の循環の学説を学んだ。しかし、彼の興味の中心は数学にあった。1637年に学士号、1640年に修士号を取得し、その後聖職に就いた。1643年から1649年、ウェストミンスター会議で議決権のない筆記者を務めた。1644年、ケンブリッジ大学クイーンズ・カレッジのフェローに選ばれたが、1645年3月14日に結婚した後、辞任しなければならなくなった。

このころ、フェルステッドの学校との関わりから議会派と親交があった。ウォリスは議会派が王党派の暗号文書を解読するにあたって、多大な技術的支援をしている。当時の暗号の出来は玉石混交だった。フランソワ・ビエトのように暗号研究で成功を収めた数学者はいたが、暗号設計や暗号解読法の理論的基盤はまだ確立していなかった。現代のようにを基盤とした体系的なものとは異なり、多くの暗号は場当たり的に作られ、秘密のアルゴリズムを採用していた。ウォリスは鍵を使った暗号がより安全だと気づき、それらを「解読不能」と評したが、そのようなアルゴリズムを奨励するほどの自信はなかった。また、海外勢力の暗号の使用に懸念を持ち、例えば1697年にゴットフリート・ライプニッツハノーファーからの留学生に暗号理論を教えるよう要請され、それを断っている。

1643年 St Gabriel Fenchurch でチャプレンとなっていたが、ロンドンに戻ると後に王立協会設立の母体となる科学者のグループに参加した。1647年、数週間かけてウィリアム・オートレッドの Clavis Mathematicae をマスターし、ついに数学への関心を満足させた。すぐに独自の論文を書き始めた。それは様々な主題を扱い、生涯書き続けることになった。1663年、王立協会フェローに選出された[3]

ウォリスはチャールズ1世の処刑に反対する穏健な長老派に与し、独立派に長く恨まれることになった。独立派の反対にもかかわらず、ウォリスは1649年にオックスフォード大学の Savilian Chair of Geometry(数学の教授職)に選任され、1703年10月28日に亡くなるまでその職にあった。数学以外にも、神学論理学、英文法、哲学についての著作もあり、聾唖者への教育方法の確立にも関与した。なお聾唖者の教育については、ウィリアム・ホルダーが聾唖者に明朗な話し方を教えるという功績を上げており[4]、ホルダーはウォリスが他人の功績を横取りしたとして非難している[5]
数学Opera mathematica, 1699

ウォリスは、三角法微分積分学幾何学級数の解析などで多大な貢献をしている。著作の Opera Mathematica I (1695) では "continued fraction"(連分数)という用語を生み出している。

今では当たり前となっている負数が 0 より小さいという考え方をウォリスは不合理だとして拒絶し、スイス人数学者レオンハルト・オイラーと同様に負数は無限大より大きいという見方を支持した。負数が無限大より大きいという考え方は、x を正の大きな数から 0 に近づけていくと .mw-parser-output .sfrac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .sfrac.tion,.mw-parser-output .sfrac .tion{display:inline-block;vertical-align:-0.5em;font-size:85%;text-align:center}.mw-parser-output .sfrac .num,.mw-parser-output .sfrac .den{display:block;line-height:1em;margin:0 0.1em}.mw-parser-output .sfrac .den{border-top:1px solid}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}1/x の値が無限大になることを根拠としている。それにもかかわらず、負数を左、正数を右に描く数直線の考え方はウォリスが考案したとされている。
解析幾何学

1655年、ウォリスは円錐曲線について解析的に定義した論文を発表している。これは円錐曲線を二次曲線として定義した最初の論文である。これは、ルネ・デカルト解析幾何学についての業績の難しさと不明瞭さを解明する助けとなった。
積分法

ウォリスの最も重要な著作 Arithmetica Infinitorum は1656年に出版された。この論文はデカルトとカヴァリエーリの解析的手法を体系化して拡張したものである。円錐曲線についての節の後、べき乗の標準的記法を自然数から有理数に次のように拡張している。 x 0 = 1 ,   x − 1 = 1 x ,   x − 2 = 1 x 2 ,  etc. {\displaystyle x^{0}=1,\ x^{-1}={\frac {1}{x}},\ x^{-2}={\frac {1}{x^{2}}},{\text{ etc.}}} x 1 / 2 =  square root of  x ,   x 2 / 3 =  cube root of  x 2 ,  etc. {\displaystyle x^{1/2}={\text{ square root of }}x,\ x^{2/3}={\text{ cube root of }}x^{2},{\text{ etc.}}} x 1 / n = n th root of  x . {\displaystyle x^{1/n}=n{\text{th root of }}x.} x p / q = q th root of  x p . {\displaystyle x^{p/q}=q{\text{th root of }}x^{p}.}

この記法の様々な代数的応用を示した後、積分法に主題を移し、y = xm という曲線と x 軸と x = h という垂線に囲まれた部分の面積が、底辺と高さが同じ平行四辺形の面積に対してこの領域の面積が常に 1/m + 1 という比率であることを証明している。彼は明らかに、y = axm という曲線についても同じことが成り立つと見なしていた(a は任意の定数、m は任意の正または負の数)。しかし、彼が論じたのは m = 2 の場合と m = −1 の場合だけで、後者についての彼の解釈は間違っている。そしてウォリスは次の形式の任意の曲線に同様の結果が得られる可能性があるとした。 y = ∑ m a x m . {\displaystyle y=\sum _{m}ax^{m}.}


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