ジョン・ウェイン
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John Wayne
ジョン・ウェイン
ジョン・ウェイン
本名Marion Robert Morrison
生年月日 (1907-05-26) 1907年5月26日
没年月日 (1979-06-11) 1979年6月11日(72歳没)
出生地 アメリカ合衆国アイオワ州ウィンターセット
死没地 アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス
身長192.4cm
職業俳優映画監督
ジャンル映画
活動期間1926年 - 1976年
配偶者ジョゼフィン・アリシア・シーンズ(1933年 ? 1945年
エスペランザ・バウアー(1946年 ? 1953年
パイラー・パレット(1954年 ? 1979年
主な作品
駅馬車』(1939年)
赤い河』(1948年)
静かなる男』(1952年)
ホンドー』(1953年)
捜索者』(1956年)
リオ・ブラボー』(1959年)
リバティ・バランスを射った男』(1962年)
史上最大の作戦』(1962年)
勇気ある追跡』(1968年)

 受賞
アカデミー賞
主演男優賞
1969年勇気ある追跡
AFI賞
映画スターベスト100
1999年 男優部門第13位
アメリカ映画100年のヒーローと悪役ベスト100(ヒーロー部門第36位)
2003年『勇気ある追跡』
ゴールデングローブ賞
主演男優賞(ドラマ部門)
1969年『勇気ある追跡』
セシル・B・デミル賞
1966年 生涯功労賞
その他の賞
ハリウッド名声の歩道
1960年 映画産業への貢献、映画・演劇業界への業績に対して

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ジョン・ウェイン(John Wayne, 1907年5月26日 - 1979年6月11日)は、アメリカ俳優映画プロデューサー映画監督。本名はマリオン・ロバート・モリソン(Marion Robert Morrison)。「デューク」(Duke、公爵)の愛称で呼ばれた。
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出典検索?: "ジョン・ウェイン" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年10月)

生い立ち

アイオワ州ウィンターセットで生まれ、マリオン・ロバート・モリソンと命名された。実家は薬屋で、薬剤師の息子でもある。しかし、両親が彼の弟をロバートと名付けることを決め、マリオン・マイケル・モリソンと名付けられた。一家は1911年カリフォルニア州グレンデールに転居したが、ウェインはどこへ行くにもエアデール・テリアの愛犬「リトル・デューク」を連れていたため、隣人が「ビッグ・デューク」と呼び始めた[1][2]。以後ずっとウェインは愛称「デューク」を本名の「マリオン」より好んでいたという。

高校卒業後海軍兵学校へ出願するが入校できず、南カリフォルニア大学に入学した。そこで彼は伝説のコーチ、ハワード・ジョーンズの下、フットボールに取り組んだ。しかし水泳中に負った怪我が元で競技生命が絶たれてしまう。彼は怪我の原因が明らかになった時のジョーンズの反応を恐れたと後に記している。
ハリウッド入りマーシャ・ハントとともに。『荒原の激闘』(1937年)の宣材写真。

大学在学中、ウェインは田舎の映画スタジオで働き始めた。西部劇のスター、トム・ミックスフットボールのチケットと交換に夏の間、大道具係の仕事を彼に世話してやった。ウェインは大道具係から1928年には映画の端役に選ばれ、1930年、ウェインの最初のクレジット入り映画であるラオール・ウォルシュ監督の超大作『ビッグ・トレイル』に主役として抜擢された。

ウオルシュがアメリカ独立戦争での将軍、"マッド・アンソニー"・ウェインから取った「ジョン・ウェイン」の芸名を彼に与えた。当初はそのままアンソニー・ウェインの芸名を与える予定だったが、「イタリア風に聞こえる」という指摘があったために名をアメリカ風の「ジョン」と改めたのである[3]。しかし、『ビッグ・トレイル』は商業的に失敗し、ウェインは『駅馬車』がヒットするまでの間、B級活劇専門俳優として不遇の時代を過ごした。しかしその間に、射撃乗馬格闘技を修得。不遇期間に主演したなかには『歌うカウボーイ、シンギング・サンディシリーズ』などというものもあり、馬にのりながら歌うシーンが残っている。
ジョン・フォードとの出会いヴェラ・ラルストンとともに。『ダコタ荒原』(1945年)の宣材写真

1939年、端役時代から友情を固めていたジョン・フォード監督の大ヒット作『駅馬車』に主演。やがてウェインはヘンリー・フォンダと並んでフォード作品の看板役者となる。[注釈 1] その後も多くの作品を生み出し、幾つかはウェインの代表作となった。続く35年間で『アパッチ砦』、『黄色いリボン』、『リオ・グランデの砦』、『静かなる男』、『捜索者』、『荒鷲の翼』、『リバティ・バランスを射った男』と言ったフォードの映画20作以上に出演した。


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