この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "ジョン・アーバスノット・フィッシャー"
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2016年8月)
ジョン・アーバスノット・フィッシャー、(アーサー・ストックデイル・コープによる肖像画、1902年)
初代フィッシャー男爵ジョン・アーバスノット・フィッシャー(John Arbuthnot Fisher, 1st Baron Fisher of Kilverstone, 1841年1月25日 - 1920年7月10日)は、"ジャッキー・フィッシャー"("Jackie Fisher")の名で知られるイギリスの軍人、提督。初代フィッシャー男爵、バス勲爵士(GCB)、メリット勲章(OM)、ヴィクトリア勲爵士(GCVO)。先込め大砲を備える木製帆船の時代に海軍へと入り、巡洋戦艦と潜水艦、そして最初の航空母艦建造に関与するなど、60年以上に及ぶ軍歴の中でイギリス海軍に対し大きな影響を与えた。艦艇建造や戦術考案ばかりでなく、英国海軍の人事改革・教育改革の面でも大きな功績を残している。イギリス海軍の歴史上、ネルソン提督に次ぐ重要人物である。 フィッシャーはスリランカ(当時のセイロン)中部州ランボダに勤務するイギリス人士官の家の11人兄弟の長男に生まれた。父はセイロン総督の副官であったウィリアム・フィッシャー陸軍大尉だった。一家はコーヒー農園を営んでいたが裕福ではなかった。フィッシャーは6歳のときに母方の祖父と一緒に暮らすためにイングランドに送られた。 1854年、13歳で海軍に入ったフィッシャーは、士官候補生として戦列艦「カルカッタ」に乗り込み、クリミア戦争ではフィンランド湾におけるロシアの港湾封鎖作戦に参加した。その後の1856年からの5年間東インド・中国艦隊に配属され、この間アロー戦争に従軍した。 本国に戻ったフィッシャーは海軍砲術学校で学んだ後、1863年3月から世界初の全鋼鉄製の装甲艦「ウォーリア」に砲術将校として勤務した。「ウォーリア」は帆船時代の終わりを告げる艦であり、アームストロング製の元込め砲とホイットワース製の先込め砲の両方を装備していた。1866年4月、彼はフランセス・ブロートンと結婚した。 1869年8月2日、彼は28歳の若さで海尉艦長(commander,海軍中佐)に昇進した。そして、ドイツに派遣され、魚雷と機雷の技術について調査を行った。おそらくこの派遣任務の影響を受けて、彼は当時の最先端技術である電気魚雷の開発や運用に関する研究を開始した。
幼年時代
初期の経歴 (1854年 - 1869年)
海尉艦長時代 (1869年 - 1876年)
Size:20 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef