ジョン・アンブローズ・フレミング
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この項目では、イギリスの電気技術者について説明しています。初代準男爵については「ジョン・フレミング (初代準男爵)」をご覧ください。

ジョン・フレミング
John Fleming

生誕John Ambrose Fleming
(1849-11-29) 1849年11月29日
イギリス
イングランド ランカシャーランカスター
死没1945年4月18日(1945-04-18)(95歳)
イギリス
イングランド デヴォン州シドマス
国籍 イギリス
研究分野電気工学物理学
研究機関ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン
ノッティンガム大学
ケンブリッジ大学
ゼネラル・エレクトリック
Victoria Institute
出身校ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン
ロイヤル・カレッジ・オブ・サイエンス
主な業績フレミング左手の法則
フレミング右手の法則
真空管
主な受賞歴ヒューズ・メダル (1910)

IRE栄誉賞 (1933)
プロジェクト:人物伝
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ジョン・アンブローズ・フレミング(Sir John Ambrose Fleming, 1849年11月29日 - 1945年4月18日)は、イギリス電気技術者物理学者。1904年、熱イオン管または真空管(二極管)「ケノトロン (kenotron)」を発明したことで知られている[1]。また、数学電子工学で使われるフレミングの左手の法則および右手の法則を考案した[2]

敬虔なキリスト教徒で、ロンドンの教会(St Martin-in-the-Fields)で復活の証拠について説教したことがある。1932年、 Evolution Protest Movement の確立に関与している。子ができなかったため、遺産の多くを教会に遺贈した。写真家としてもかなりの腕前で、水彩画やアルプス登山を趣味とした。
前半生

ランカシャーランカスターに生まれる。父は会衆派教会の聖職者だった。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンにて学び、1877年ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ(en)に進学。1881年に学士号を取得し、1883年にフェローとなった[3]ケンブリッジ大学ノッティンガム大学ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで講師を務め、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンでは最初の電気工学教授に就任。また、マルコーニ無線電信会社(en)、フェランティ、エジソン電信会社後にエジソン電灯会社などのコンサルタントを務めた。1892年、変圧器の理論についての重要な論文をロンドンの英国電気工学会(en)に提出した。
学生時代と私生活

フレミングが学校に通い始めたのは10歳のときで、特に幾何学が得意だった。それ以前は母から教えられていて、Child's Guide to Knowledge という子供向けの本をよく読んでいた。大人になってからも、その本から引用することがあった。University College School に進学し、数学では優秀だったが、ラテン語ではいつも成績が悪かった。

子供のころから技師になりたいと思っていた。11歳のとき自分の工房を持ち、エンジンつきの船の模型を作っている。またカメラを自作しており、生涯に渡って写真撮影を趣味とした。色々なものを作るのに必要な資金は一家の財政ではまかなえず、学校に通うと同時に働いて稼いだ。

ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンでは数学者オーガスタス・ド・モルガンと物理学者 George Carey Foster に師事し、学士号を取得して1870年に卒業。その後 Royal College of Science(現在のインペリアル・カレッジ・ロンドン)で化学を学ぶ。そこで初めてボルタ電池に出会い、最初の論文のテーマに選んだ。当時新たに創設されたロンドン物理学会(現在のイギリス物理学会)に最初に提出された論文で、同会の議事録1巻目の最初のページに記されている。金銭的に行き詰ってきたため働き始め、1874年夏にはパブリックスクールで科学講師をして年に400ポンドを稼いだ。独自の研究も続け、ケンブリッジ大学ジェームズ・クラーク・マクスウェルに師事。彼が受けたマクスウェルの講義は非常に難解だった。フレミングによればマクスウェルの講義は不明瞭な部分が多く、「逆説的で暗示的な言い方」が多かったという。時には聴講生がフレミング1人だけということもあったという。今度は化学と物理学で首席で卒業。その後ケンブリッジ大学で1年間機械工学実験の実演者として勤め、ノッティンガム大学物理学数学教授になったものの、1年以内に他に移った。

1887年6月11日、バースの法務官の娘と結婚。その妻とは死別し(1917年)、1928年7月27日にブリストルの歌手と結婚した。
業績

1882年にノッティンガム大学を去ると、フレミングはエジソン電灯会社で電気技師として勤め、新たに創業したフェランティで交流システムについて助言したりしている。1884年、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで電気工学の教授に就任。イングランドでは初の電気工学教授職である。これは大変な名誉だったが、実際に提供された機器は黒板とチョークだけだったと、後の自伝で記している。そのころフレミングの法則を発表した。この法則はフレミング右手の法則フレミング左手の法則から成り、マイケル・ファラデーによって発見された電磁誘導モーター発電機などの基礎原理・専門分野では電磁気学がある)を判りやすく人間のの形で表した物として知られている。これは彼がロンドン大学で教鞭をとっていた際、何度電磁誘導を説明しても「電流によって発生する磁場」と「磁場によって発生する電流」の関係を憶えられない学生が見られたため、これをイメージしやすい形で表した。今日では多くの国で義務教育過程にて教えられる。1892年に王立協会フェロー選出。

1897年、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンにペンダー研究所が創設され、フレミングが所長に就任した。この研究所はケーブル・アンド・ワイヤレス(当時はイースタン・テレグラフ・カンパニー)の創業者ジョン・ペンダーが5000ポンドを寄付したことを記念して創設されたものである[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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