ジョン・アダムズ
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この項目では、米国第2代大統領について説明しています。その他の用法については「ジョン・アダムズ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ジョン・アダムス
John Adams


アメリカ合衆国
第2代 大統領
任期1797年3月4日1801年3月4日
副大統領トーマス・ジェファーソン
アメリカ合衆国
初代 副大統領
任期1789年4月21日1797年3月4日
大統領ジョージ・ワシントン
アメリカ合衆国
初代 アメリカ合衆国オランダ担当大臣
任期1782年1788年
アメリカ合衆国
マサチューセッツ州選出
第2回大陸会議代議員
任期1775年1778年

出生 (1735-10-30) 1735年10月30日
13植民地 ブレントリー マサチューセッツ湾直轄植民地
死去1826年7月4日(1826-07-04)(90歳)
アメリカ合衆国 マサチューセッツ州クインシー
政党連邦党
出身校ハーバード大学
配偶者アビゲイル・アダムズ
子女アビゲイル・アダムズ・スミス
ジョン・クインシー・アダムズ
スザンヌ・アダムズ
チャールズ・アダムズ
トマス・ボイルストン・アダムズ(英語版)
エリザベス・アダムズ
署名

ジョン・アダムズ(John Adams、1735年10月30日 - 1826年7月4日)は、アメリカ合衆国政治家副大統領(初代、1789年から1797年の2期)、第2代大統領(第2代、1797年-1801年)を務めた。また、アメリカ海軍の創設者である。アメリカ合衆国建国の父の中でも最も影響力があった者の1人とされている。

アダムズはアメリカ革命の初期に著名になった。大陸会議にはマサチューセッツ湾植民地の代表として出席し、1776年に大陸会議がアメリカ独立宣言を採択するときに指導的な役割を果たした。大陸会議からヨーロッパに派遣され、イギリスとのパリ条約締結では交渉の主役となり、またアムステルダムから重要な借款を得る中心人物だった。

アダムズは独立に貢献したことで、ジョージ・ワシントンの下で2期副大統領を務め、また第2代大統領にも選出されることになった。この大統領としての任期の間、自身の連邦党アレクサンダー・ハミルトンが率いる一派)内部での抗争と、新しく頭角を現したジェファーソン流共和主義者との党派抗争に悩まされることになった。また論争の多かった外国人・治安諸法に署名した。大統領任期中の最大の功績は1798年フランスとの擬似戦争危機を平和的に解決したことである。

1800年大統領選挙で、トーマス・ジェファーソン(当時の副大統領)に再選を阻まれた後は、マサチューセッツ州に引退した。妻のアビゲイル・アダムズとともにアダムズ政治一家と呼ばれる政治家、外交官および歴史家の家系を作り育てた。彼の息子ジョン・クィンシー・アダムズは第6代アメリカ合衆国大統領になった。アダムズの功績は当時他の建国の父ほどは評価されなかったが、現代ではより大きな評価を受けるようになってきた。

2001年10月にロナルド・レーガンに抜かれるまでアメリカ歴代大統領の中で最長寿記録を誇っていた(90歳と247日、2019年3月現在はジミー・カータージョージ・H・W・ブッシュジェラルド・R・フォード、レーガンに次いで5位)。身長は5フィート7インチ(約170cm)だった[1]

妻のアビゲイル・アダムズは夫の大統領任期中にファーストレディの役目を果たした。女性の権利の向上を訴え、奴隷制度には反対するなど当時としては極めて進歩的な考えの持ち主であったことで知られている。
生涯
生い立ち

アダムズは現在のマサチューセッツ州クインシー(当時はブレイントリーの「北地区」と呼ばれた。生誕地は現在アダムズ国立歴史公園となっている)で1735年10月30日に生まれた[2]。3人兄弟の長男だった[3]。アダムズの父親ジョン(1691年-1761年)は、1638年ごろにイングランドのブレイントリーからマサチューセッツに移住してきたヘンリー・アダムズの五世代目の子孫だった。アダムズはウェールズの「アップ・アダムズ」と呼ばれる男系家族の子孫となる[4]。父は農夫であり、会衆派教会員すなわちピューリタン司祭、民兵隊では中尉、町では学校や道路を監督した町会議員だった。母親のスザンナ・ボイルストン・アダムズはブルックリンのボイルストン家の出だった[5]

アダムズは質実な家庭に生まれたが家族の承継資産で生活していく責任を痛切に感じていた。先祖は1630年代にアメリカの荒野にやってきて現在在るアメリカの植民地を造り上げたピューリタンの開拓世代だった。大移住世代のピューリタンは「聖書の中で生活していると信じた。ステュアート朝のイングランドはエジプトであり、彼等はイスラエルに逃れてきた者であり、神を敬うために避難所である丘の上の都市を造るためにきた」と考えた[6]。アダムズが生まれた1735年までに、ピューリタンの予定説としての信条はもはや広く受け容れられなくなっており、その厳格な慣習の多くは時の経過と共に瓦解してきていたが、アダムズは「ピューリタンを自由の享受者、依然として神聖な緊急性を持っている側の者と考えた。」それがアダムズの信じる価値体系であり、それで生活していきたいと願う英雄的モデルだった[7]

アダムズは1751年ハーバード大学に入学した[8]。アダムズの父は牧師になってくれることを期待していたが、アダムズはそれを疑問に感じた。1755年に大学を卒業し、ウースターで数年間教師の職を務めながら、その後の職業選択について考える時間を持った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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